ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

祖父母の話し

 前回の記事の続きのようなものである。

 

 まずは祖父の話し。祖父は都農の家で生まれ、育ち、亡くなった。曾祖母に相当甘やかされて育ったらしく、お坊ちゃま気質であった。中学を出た後は家業の馬車屋を継いだが、継いだときには経営が傾いていた。そのため祖母が嫁いだあとは旭化成の工場へ働きに行ったり、車のディラーをしたりしていたが、最終的には家業を変えて暮らした。その仕事の世話は地域の名望家のような人で県議会議員だったかたに世話をしてもらったらしい。今ではあまりこういうものは見かけなくなってしまった。

 旅行などにはあまり出たがらない人で、年に一度の親族旅行では毎回駄々を捏ねていた。何故かはわからないが、常に長袖を着ていて人と一緒にお風呂に入るのも嫌がった。入れ墨をしていたわけでもないのに謎である。これといった趣味はなかったのだが、日曜大工的なことを好んでしており、家の修理をしたり自作の家具を作ったりしていた。日課として6時半に起きて体操をし、ひげそりをし、その後般若心経を唱え、神棚の前で親族一人一人の安寧を祈り、掃除をした。般若心経を唱える仏壇は私が寝る部屋にあったのだが、私が寝ていようがお構いなしに唱え始めるので、強制的に起こされた記憶がある。あまり孫を可愛がるタイプではなく、遊んでもらった記憶はない。どう接すれば良いのかわからなかったのだろう。子供ながらにそういう感じはした。

 

 次に祖母の話しである。祖母の実家は高鍋で、そこそこ裕福な家だった。高知出身の商人の家系で、曽祖父は町議会議員をしていたらしい。女学校を出たあと祖父のもとに嫁いできた。都農で一番裕福な家だと言われて嫁いで来たら違ったとぼやいていた。箸より重いものを持ったことがないと言われていたほどのお嬢様であったが、都農に来たら働かざるを得ず、布団を売り歩いたり、水道管の検査をしたりといったことをしたらしい。

 このあたりの風習なのか、子を産んで初めて籍を入れてもらえたそうだ。これといった趣味はなかったが、占いにこっていた。私が赤ちゃんのころに原因不明の熱が続いていた。これを心配した祖母が占い師に相談したところ、水神様のたたりと言われ、お祓いをすると熱が引いたらしい。タンスのなかから、テレビの上まで家のあちこちにお金をおくという謎の趣味があった。本人はお金を見つけるのが楽しいと言っていたが、よくわからない。祖母は祖父以上に孫を可愛がるということはしなかった。祖父と違い、単純に無関心であったのだろう。