ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農の家の話し

 都農にある祖父母の家について記事を書いてみようと思う。興味がある人はいないと思うが 笑

 

 比較的珍しい名字で全国にも1000人もいない。秋月家に仕える臣下が名乗った名字のようだ。宮崎、福岡に見られる。

 家に家系図があるような立派な家ではないので、口伝や近所の人の話しを頼りにすると4代前まで遡れた。4代前(私のひいひい婆さんにあたる)に現在の地に居を構えたようだ。祖父母ともにあまり4代前についてあまり語りたがらないので、周囲の人に聞いた話しを参考にするしかなかった。どうも4代前は曾祖母と仲が悪かったらしい。

 もともと先に述べた苗字の本家だったらしい。本家といっても大した家ではないのだが。兜を入れた箱があると祖父は言っていた。その箱は見つからないのだが、昔は武士だったのかもしれない。4代前は放蕩娘だったらしく、子を身籠った状態で家を追い出され現在の地に移り住んだ。移り住んだとはいえ本家との距離は近く、50mほどである。追い出したとはいえ心配だったのであろう。家の世話もしたのかもしれない。なお本家の方は養子をとったらしく、そのまま存続している。4代前は子を二人産んだもののの旦那はいなかったらしく、一人で育てたようだ。

 

 さて次は3代前の曽祖父母だが、曽祖父についてはあまり祖父が語りたがらず、母や叔父叔母が産まれた頃には既に亡くなっていた。そのためあやふやな情報が多い。曽祖父は曾祖母に出会うと半ば駆け落ちのような形で神戸に行ったらしい。その後すぐに都農に戻ってきて馬車屋を始めたようだ。神戸で何か技術を学んで来たのかもしれない。馬車屋は繁盛し、儲かっていたようだが、博打打ちだったらしくあまり資産を残さず亡くなってしまった。時代とともに馬車が流行らなくなったのもあるのだろう。

 曾祖母は湯ノ本の出身であったらし。姉御肌気質な人で曾祖母に会いによく人が訪れていたという。

 

 自分の親や先祖については語りたがらなかった祖父だが、自分の大叔母(4代前の妹)については良く話していた。相当可愛がってもらったのだろう。西米良の領主であった菊池氏のもとに嫁いで、菊池菊と名乗っていた。何の縁かはわからないが、見初められて嫁いだらしい。踊りがうまかったという話しが残っているので、そのためかもしれない。とはいえ嫁ぐには家格不足だったようで、佐土原藩藩士のもとに養女に入って結婚した。正妻であったのだが子を残さなかったためか、夫に先立たれたあとは都農の家に戻ってきた。年金のようなものをもらいながら都農で暮らし、都農で亡くなった。