都農神社の御神体
都農神社の本来の御神体とは何だったのであろうか。町史や都農神社の方に記載がないため、現在の御神体は何なのかよくわからない。
ただ1578年に都農に大友宗麟の軍勢が乱入した際に御神体を矢研の滝近くまで避難させたとの記述や、1878年の西南戦争の際に戦乱を危惧して御神体を避難させたという記述から推察するに、持ち運び可能な物体であると思われる。
ところが以前も引用した塵添壒囊抄に興味深い記述がある。
日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。神ヲハス、吐乃大明神トソ申スナル。(塵添壒囊抄 二十八 何口事)
これによると都農神社の神様と思われる吐乃大明神が宿る吐濃ノ峯と言う峯があるようだ。吐濃ノ峯は都農にある岩山を指すと思われる。(都農で有名な尾鈴山は韜馬ノ峯として登場する。)以前はこの岩山が御神体であったのではないか。
では今はその岩山はどうなっているのか。
現在岩山は都農牧神社の中にあり、一般の人でも登れるようになっている。小さいころに行ったことがあるらしいのだが、残念ながら何も覚えていない。調べても場所が出てこずわかりにくいのだが、都農ワイナリーに行く途中にある不動の滝公園という公園の中にある。何故か町史の地図編にも載っていない。
この都農牧神社は1725年に高鍋藩が藩営の牧の守護神として建立されてもので、比較的新しい。
そして都農牧神社の近くで、同じ公園の中に滝神社がある。同神社は都農神社の奥宮であり、不動の滝を祀っている。建立の時期は不明だが、1392年に再建されたという記述があり、都農牧神社より歴史は古い。恐らく以前は岩山を含めて滝神社のあたりまで都農神社の敷地であったのであろう。
つまり当初は吐濃ノ峯(岩山)を御神体としていたが、都農神社の勢力衰退ともに岩山を失い、遅くとも1578年までには物が御神体になったのではないかと考えられる。
この仮説にはいくつか問題点がある。
一つは1578年の時点での御神体が物であり、それ以前の御神体は大友宗麟の焼き払いによって資料が失われていることから実証が困難であること。
もう一つはこの仮説の最大の論拠となっている。塵添壒囊抄の資料としての信頼性が低いことがあげられる。
次に都農に帰る際に都農牧神社と滝神社に行って見ようと思う。滝神社は祭神が高龗神という貴船神社の祭神と同一なのも興味深い。