比木神社・宗麟原供養塔
1、比木神社
比木神社は木城町にあり、中心部から川の上流へ5分ほど走ったところに位置する。都農神社とともに高鍋藩から厚い崇敬を受けてきた。
神社の参道の両脇には樹齢400年を超える立派な楠木や木々が茂っている。
都農神社と同様に大己貴命を祭神としていることや、百済の王族であった福智王が弔われているのが興味深い。
2、宗麟原供養塔
宗麟原供養塔は川南町にあり、木城町との境に近いところに位置する。川南古墳群からも近い。
高城(耳川)の戦いの戦死者を弔う供養塔として、島津軍の山田有信が建立した。
以下の写真を見ればわかるように、塔には折れた跡があり、塔に描かれた地蔵は顔が削られている。
度々取り上げてきた廃仏毀釈のあとが見て取れる。
都農と西郷隆盛
西南戦争の直接の舞台になったわけではないが、都農も西郷隆盛と関わりがある。大河ドラマ「西郷どん」が放送されているうちに書こうと思っていたのだが、後回しにしているうちに終わってしまった。
1877年2月に西南戦争が勃発すると、地理的歴史的にも薩摩藩と関わりが深い現在の宮崎県の大半は、薩摩側に味方した。都農を含む旧高鍋藩は、銃の徴発を受けたものの、旧藩主秋月氏の呼びかけもあって参戦をしぶっていた。しかし孤立すること恐れて出兵し、3月ちょうど田原坂の戦いの最中に着陣した。
田原坂の戦いでの敗戦以降余裕のなくなった薩摩の徴発は厳しくなり、金銭や金属、労働、コメなどを徴発され、都農神社の屋根も剥がすほどであった。また寡兵も行われ、都農からも20、30名薩摩側で参戦することとなった。
7月29日には西郷隆盛が都農を訪れ、現在の桝屋(現在の報恩寺)に宿泊した。※見学は出来ません。
8月に入ると都農は政府側が占拠し、耳川を挟んで薩軍と対峙した。都農には第三旅団が着陣している。
戦死者はいなかったものの、収穫期とも重なったためこの一連の戦争で都農は荒廃したという。
西都市・西米良村歴史民俗資料館
①西都市歴史民俗資料館
西都原考古博物館と異なるので注意。古墳のある台地でなく、西都市の市街地に位置している。
西都原考古博物館に比べると規模は劣るが、展示の趣旨は異なるため見に来る価値はあるであろう。古墳についての展示ももちろんあるが、あくまで西都市全域の歴史や民俗を扱った博物館である。
都於郡城に関する扱いが大きく、城や周辺の地形図がジオラマで再現されている。また城のパンフレットも配布されているため都於郡城を訪れる前による必要性があるだろう。
他には国の重要文化財指定を受けている「児湯郡印」や、平安時代から伝わるという三宅神社の刀剣が興味深い。
②西米良村歴史民俗資料館
西米良村の中心部に位置している。
椎葉同様に狩猟や焼き畑が盛んであったため、焼き畑についての展示が半分を占める。
もう半分は米良の領主であった米良氏の後裔である菊池武夫公についての展示である。菊池武夫公が晩年を過ごした家がそのまま保存されている。現在でも菊池武夫公の孫が毎年訪れているという。
一八七五 - 一九五五
大正・昭和時代の軍人、国家主義者。肥後の菊池氏の米良領主の後裔。男爵。明治八年七月二十三日生まれ。父は武臣、母は富。同二十九年、陸軍士官学校卒。同三十九年、陸軍大学校卒。昭和二年三月、陸軍中将。同年七月、予備役。同六年十一月、貴族院議員。勤労聯盟会長、国本社理事、日本学生東亜聯盟会長、国際反共聯盟主要役員。昭和十年二月十八日、第六十七回通常議会の貴族院本会議の国務大臣演説に対する質疑で、菊池議員が美濃部達吉の著作『憲法撮要』『逐条憲法精義』を挙げ、美濃部学説の天皇機関説は国体に対する謀叛明らかな反逆とし、美濃部を学匪として糾弾した。この発言と二月十五日の衆議院予算委員会での江藤源九郎議員の質問が天皇機関説問題の発端である。いわゆる国体明徴運動の中心人物であった。戦後、戦犯として巣鴨拘置所に収容されたが昭和二十二年釈放。同三十年十二月一日死去。八十歳。墓は熊本県菊池市の正観寺にある。法名泰邦院殿孤芳明倫大居士。
(国史大辞典)
西都原考古博物館 特別展、鹿野田神社
西都原考古博物館の特別展「豊と日向 日出る国の考古学」(18日まで)に行ってきた。
西都原考古博物館は豊日文化圏というものを想定しているようで、今回の展示はそれに則って行われたものだと思われる。豊日文化圏とは現在の大分県と宮崎県が古代においては同一の文化圏に属していたという考え方で、あまりメジャーな考え方ではない。詳しい内容については「古代日向の国」(西都原古墳研究所所長 日高正晴、1993年、NHK BOOKS)を参照してください。
特別展の内容は日向の国で出土した物を豊後の国で出土した物を横に並べて、縄文時代から戦国時代まで展示したものである。
解説があまり詳しくなく、展示している時代の範囲が広いため統一的にどのような考え方を示したいのかわからないのが残念である。事前に豊日文化圏という考え方を知らなければ意図がわかりづらいであろう。通常展がメッセージ性が強く、考え方がわかりやすいのに残念である。
同じく西都市にある鹿野田神社を訪れた。かなり内陸にあるにもかかわらず、井戸から潮水が出るという。飲泉用の井戸水を飲んでみたが、ほぼ海水と同じ味でかなり塩辛かった。面白い神社である。
高鍋城(舞鶴城)
高鍋城は高鍋町の中心部である平野に突出した台地の上に立っている。
高鍋藩を治めた秋月氏の居城であるが、もともとは平安時代末期に日向国一帯で権勢を誇った土持氏の居城であり、その後伊東氏、島津氏の所有を経ている。
高鍋の地はもともとは財部と呼ばれていたが、秀吉によって高鍋に改められたという。(おそらく当て字)
高鍋城は舞鶴城と呼ばれており、看板でも舞鶴城と呼称されているが、舞鶴の由来は上空から見た時に舞鶴の形に似ているからだそうだが、舞鶴城という城名は全国各地にあり流行っていたのだろう。
あまり遺構は残っていないが、曲輪や土塁、石垣が多少残っている。木が生い茂っており、眺望はあまりよくないが、木がなければ高鍋町一帯を眺めることが出来たであろう。
城下にある資料館では高鍋町の歴史がわかりやすく展示されている。中でも見どころは高鍋町近辺のジオラマで、高城の地理的重要性と耳川の戦い、根白坂の戦いがどのように展開したのかが見て取れる。
生目
宮崎市の市街地からほど近くにある生目地区を訪れた。
①生目神社
生目という名から明らかなように眼病にご利益があるとされている。平日に訪れたのだが、参拝客が他に幾人かおり、信仰を集めていることが伺えた。
宇佐神宮の荘園管理のため八幡神を勧進したのが始まりとされるが、明治に入るころに八幡神は祭神ではなくなっている。生目の由来については藤原景清の眼を祭ったという説や眼病のご利益があるからなどいくつかの説があるようである。
②生目古墳
訪れた際には近くの生目の杜運動公園でソフトバンクホークスがキャンプを行っており、その臨時駐車場ともなっていた。
古墳は西都原古墳群と同じく台地の上にある。その麓には遊古館という博物館兼体験スペースがあり、勾玉づくりなどが出来るようになっていた。
西都原古墳群とは異なり古墳の上に登れることが目玉となっている。しかし九州最大の前方後円墳である3号墳には登ることが出来ても、雑木林のようになっているため、なかなか全容がつかみにくい。ただ3号墳からみた7号墳ははっきり前方後円の形が視認出来た。また5号墳は当時を再現して石を瓦のようにして墳丘を覆っており見応えがあった。
PR動画
都農のPRをする動画が公開されている。
近年の動画サイトの躍進や国からの交付金の兼ね合いもあってこういったPR動画を公開する自治体が増えている。
率直に述べるならば都農のPR動画は良くもなければ悪くもない。魅力を伝えてはいるし、まとまってはいる。だが記憶に残るようなインパクトはない。公開から一年以上経っても再生回数は3000回にも満たない。
同じ宮崎県内の小林市の動画は、市のPRをしながら、ある仕掛けによって見た人が誰かに話したくなるようになっている。(ネタバレになるので中身は言えない)
実際に再生回数も230万回と都農の1000倍で、多くのネットメディアに取り上げられている。
思わず2度見る!話題の小林市PR動画 衝撃のオチ、まんまとハマる - withnews(ウィズニュース)
また都農の隣に位置する日向市の動画はストーリー仕立てのPRによって印象に残るようになっており、再生回数も80万回に達している。
両市とも独自に動画を作ったわけではないであろうし、動画製作者や広告代理店の手腕によるところも大きいであろうが、こういうPR動画によっていわゆるバズることを狙ってみてもよいのではないのかと思う。