ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農の民話

都農高校の先生が編纂した「つの町ふるさと物語」には町史に収められていない多くの民話が収録されていた。恐らく発行部数は少なく、図書館などにしか置かれていないと思われる。聞いたことがある民話と細かい点で内容が違うものも多く、その意味で参考にな…

日向諸県君と葛城氏

1、日向諸県君と葛城氏 西都原考古博物館で特別展として「日向諸県君と葛城氏」が展示されていた。 宮崎県立西都原考古博物館|開催中 5世紀に活躍した日向の諸県君と大和の葛城氏についての展示である。 以前紹介した「古代日向の国」という本で両者の関…

川南・西都の神社

1、平田神社(川南) 川南の中心部からほど近い地にある。祭神はヤマトタケルノミコト。 ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐の際にこの地に宮が置かれたことが神社の由来となっているそうだが、都農神社と同様に大友宗麟の焼き討ちにあっているため、戦国時代…

都農の諸神社と古墳

1、都農の諸神社 以前都農の諸神社という記事を書いたが、今回は案内していただき小さな神社を中心にめぐった。 山間部の神社を除いて10社ほどを訪れた。かつて都農に子供が多かった影響なのか菅原神社が多い。菅原八坂神社という不思議な名前の神社があ…

県北の山体信仰

都農の名所の一つに尾鈴山が挙げられ、その信仰も厚い。尾鈴山の関連で今回は県北の山体信仰を取りあげる。 1、速日の峰 早日渡神社において祭られている。 速日の峰は饒速日が降臨した地として伝えられており、その意味で尾鈴山との関連性を見出すことも出…

美々津観光

美々津は都農から近いこともあって、よく通るのだが、町中を訪れたのは子供のころ以来だった。子供のころは祖父が仕事のついでによく美々津まで連れていってくれた。 美々津は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、江戸・明治ごろの趣ある街並み…

つのぴょんと行く!都農町探検

都農の観光地や魅力が3分間にまとめられた、「つのぴょんと行く!都農町探検」という番組があることを今更ながら知った。 3分という時間であれば、細かな魅力も伝えられるであろうし、動画の方が文章よりわかりやすく魅力を伝えやすいので、都農の魅力を知…

何故郷土研究か

前回の記事のように郷土研究とは異なる内容を書くこともある。一応このブログの内容は郷土研究が中心となっている。 では何故郷土研究なのか。 私が把握している限りでは大学の周りに郷土研究をしている人はいない。趣味として取り組もうという人はあまり多…

民俗学の学際性

1、学際性の必要性 島村恭則氏は「フォークロア研究とは何か」[i]の結びにおいてフォークロア研究の学際性を強調している。 もう一つあらためて注意しておきたいのは、フォークロア研究は、人文社会系諸学の学際的状況の中で成立するものだということである…

都農町の誕生

1、明治維新後 1869年の版籍奉還に伴う藩政改革で現在の都農町に属する地域は川北郷と都農町とされた。都農町は商店街がある地域一帯で、川北郷はそれ以外の地域だと思われる。 その後同年10月には北庠という名で両地域は統一される。翌年にはまた北…

都農の歴史⑦ 戦後

1、戦後 戦後都農への復員者は約1300名、引揚者は約700名と合計2000名が都農に帰ってきた。しかし当時の日本は国土の荒廃と食糧難、激しいインフレに悩まされており、都農もその例外ではなかった。そのため長野、牧内、都農牧場へ入植が進められ…

都農の歴史⑥ 近代 大正・昭和前期

1、大正時代 大正9年に都農は村から町へと移行する。都農は児湯郡内でもっとも有権者数が多く、人口も川南と僅差の二番目であった。(町史では人口が郡内で一番とされているが誤記だと思われる。) さらに大正10年には日豊本線が都農まで延び、商業、農…

都農の歴史⑤ 近代 明治

1、明治維新の影響 1868年の明治維新から2年後には版籍奉還が行われたものの、実体は以前と変わらなかった。しかし版籍奉還から2年後の廃藩置県により名実ともに藩政が廃止される。その後都農は美々津県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県という経過をたどる。…

都農の歴史④ 近世

1、江戸時代 都農は江戸時代一貫して、高鍋藩秋月氏の支配下に置かれる。 日向国高鍋領郷村高辻帳(1711年)には現在都農町に属する村々が挙げらている。寺迫村・征矢原村・長野村・瓜生村・岩山村・篠野別府村が記載され、石高は合計すると1983石…

都農の歴史③ 中世

1、鎌倉時代 日向國図田帳(1197年)によると、都農は殿下御領と呼ばれる藤原氏の荘園であり、「新納院百二十丁、右児湯郡内地頭掃部頭」に含まれる。新納院とは都農を含む荘園の名で、木城・高鍋・都農・川南を中心とした地域を指す。掃部頭とは源頼朝…

都農の歴史② 古代

1、中央政府との関わり 律令制が整備されていく中で、国郡里制が施工された。和名類聚抄(931~938年)には児湯郡都野という記載がある。 都農には駅(伝馬の設置場所)が設置されていたと思われる。都農の草書とよく似た「去飛駅」が都農駅に比定さ…

都農の歴史① 原始時代

都農の歴史について簡潔にまとめていく。参考資料は主に都農町史1998年になります。 1、縄文時代まで 縄文時代は温暖な気候で、宮崎の海岸付近では現在よりも5~10mほど海水面が高かったことが予想される。したがって現在の都農の中心部は海で、国道1…

戦時下の都農

まずは都農の戦時下について町史に書かれていることを簡単に書く。 都農は隣の川南に空挺部隊の演習場があった影響で、野営地の一つとなっていた。都農からも多くの兵士が徴集され、都城連隊に編入されて中国、フィリピンなどを転戦した。また沖縄県の糸満市…

都農のゲストハウス

都農駅がリニューアルしたそうだ。8月になれば夏休み入るので、ジオラマも見に行ってみたい。 都農駅がリニューアルしました - 日々の都農 都農にはあまり宿泊施設が多くない、最近出来た国道沿いにあるホテルAZと駅前の亀屋、町中の大黒屋のみである。 私…

南原繁と折口信夫 その四

一応柳田の祖霊信仰(固有信仰)が神道の普遍宗教化につながる可能性について考えてみる。祖霊信仰はその名が表すとおり、祖先信仰が根底にあり、丸山の南原に対する批判がそのまま当てはまる。柳田の祖霊信仰においては氏族的な性格は弱められているという…

南原繁と折口信夫 その三

折口信夫の神道普遍宗教化については柄谷行人氏が「遊動論 柳田国男と山人」において批判している。ただしタイトルにもあるようにあくまで柳田国男論が中心で、柳田国男の固有信仰と対比する形で折口を批判している。(第四章の5 p157~166) Amazon CAPTCHA…

南原繁と折口信夫 その二

前回の記事の続きになります。今回は前回取り上げた南原繁と折口信夫の論考についての批判になります。 南原繁に対する批判は丸山真男によってなされました。1964年に行われた南原繁と丸山真男の座談会において南原は以下のように述べます。 民族の個性…

南原繁と折口信夫 その一

ネタが尽きつつあるので、論考を。 南原繁は戦後最初の東大総長を務めた政治学者である。一方で折口信夫は民俗学者である。両者はかなり異なる背景を持ち、対談などといった形で積極的な交流を持たなかったと。しかし両者とも同じ時期に同じようなことを考え…

日向(市)観光

①馬ヶ背・クルスの海 以下の写真の切り立った崖の部分が有名。(この写真の部分が馬ヶ背ではなく、岬の突端部分が馬ヶ背と呼ばれている。) 岬の突端まで歩いていくことが出来る。三方を海に囲まれているため、晴れた日は見晴らしも良く、気持ちが良い。 馬…

古代日向の国

「古代日向の国」 西都原古墳研究所所長 日高正晴、1993年、NHK BOOKS Amazon CAPTCHA 古代日向の国がタイトルではあるが、内容の中心は児湯地域となっている。西都原古墳研究所所長が著者ということもあって西都贔屓な記述なのではないかと感じなくもな…

郡衙

三輪貞夫さんが編集した「神社探訪 都農」に興味深い話しが載っていた。以下は太字は引用 ※ある識者の説 滝神社の近くには、弥生時代の竪穴式住居跡の一部が確認された境ヶ谷遺跡、古代土器の出土を見た京塚、黒石などの遺跡が存在しており、ある識者は、不…

延岡の諸神社

1.三輪神社 三輪氏の痕跡が見られる地ということで行ってみた。五ヶ瀬川沿いに延岡市街地から登っていき、ちょうど高速の下のあたりにある。祭神は三輪系ということで大己貴命である。 神社そのものは地域にある普通の神社という感じがしたが、この地は下三…

日向国都農町史

「日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年 1998年に発行された都農町史の一個前のものにあたる。現在の都農町史に比べると薄く、200ページにも満たない。記述には推論や確証のない話が多く、現在の都農町史に載っていない内容が多い。その意…

西都について その2

1.石貫神社 西都の市街地から米良方面に少しはずれた地にある。この周辺には神話の伝承地が密集している。地区名が三宅となっているのだが、ヤマト政権の直轄地であった屯倉がその由来だと思われる。このことがその密集と関係しているのだろうか。 石貫の…

耳川の戦いと都農

耳川の戦いは、最近は小丸川(高城)を耳川と誤記したのではないかということで高城川の戦いとも言う。都農でも激戦があったようだ。 まず大友軍の南下を島津軍が都農で迎撃したのだが、すぐに破れ大友軍は高城まで進軍した。恐らくその際都農神社が焼き払わ…