ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

高鍋藩における修験道と雨乞い

 宮崎みんなのポータルというサイトのコラムに面白い記述があったので、取り上げたい。

 高鍋藩では臨済宗を藩の宗教とし、密教を守護宗として保護が加えられ、その信仰もあつかった。そのため数多くの寺院の建立があり、その大部分は禅と密であった。
 この時期、高鍋藩内では尾鈴山を信仰の対象として修行の場とする修験が盛んで、藩内には松尾山地福寺を本寺として、鈴峰山飯長寺(松本)、蓬莱山興福寺(高城村)、朝倉山龍岸寺(城内脇村)、甘漬山観音寺(川南村)、角養山大泉寺(都農山下)、山号不明長福寺(美々津)など14か寺の修験宗寺院があった。

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 密教修験道と密接な関係をもっていたため、高鍋藩が守護宗としていたならば、修験道の場として尾鈴山が重要視されたことが伺われる。

 また上記記述によれば、藩内における修験道の本寺は松尾山地福寺におかれていたという。高鍋城内におかれていたこの寺は現在は廃寺となってしまったようだ。

 そのため尾鈴山修験道が都農神社を中心としていたとする、私の考えを改めなければならない。

 

 

 祈祷指示は円実院と日光院が最も多く、次が尾鈴神社(尾鈴大明神)と比木神社(比木大明神)そして都農神社(都農大明神)であった。

(中略)

 高鍋藩では元禄6年(1693)から安政元年(1854)までの161年間に祈雨・祈晴を306回行っている。雨乞い祈祷は2夜3日に及び家老またはそれに次ぐ上役が参加している。

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 尾鈴山では雨乞いの祈祷が何度も行われているがわかるが、その中心もやはり都農神社ではなく、円実院(地福寺)であった。

 円実院、日光院ともに現存していないが、比木神社は現在も木城町に鎮座しているので訪れてみたい。

 

永友司日記③

明治三年(一八七一)p101

七月廿一日永友司
左局御承事様
都農一宮神主金丸通治兼治病身( 俗ニ云ヨイヨイ病也) 罷有何分血□相続候様
無之候ニ付、水町和太郎跡相続仕居候ニ男林吉方此節、双方熟談之上呼戻し、
金丸之家血□相続為支度、医師容躰書相添願出候処、願之通り七月廿三日御
免ニ相成ル。尤御用難相勤候間、司方登城承り候。
私孫宗年義両三年以前より足痛罷有未タす切ト平癒不致折ニ相発候故、登坂
之上療治為支度甚願之処、幸此節綾部考之介来ル十日より登坂致候趣ニ付、
随従致療養為支度且又当時皇学修業も相成丈為致度御座候間、早々御免被成
下候様此段奉願候。以上。

 

 上記記述を読む限り、単に和太郎が幼いからという理由のみならず、適齢期の神主がヨイヨイ病(中風)を発症していたことも関係しているのであろう。

 永友司は自身の病もあって、このタイミングで金丸家に都農神社の神主を相続させることを模索している。それは叶ったようだが、国幣社となった都農神社の神職の任官は中央からなされるようになったため、翌年には堀口章介なる人物が都農神社の神主に就くこととなる。

  

 今回は神官の交代というテーマで読んでみたが、明治維新前後の雰囲気を神職という目線から見ることができて面白かった。(ほとんどは仕事上の記録である)

 廃仏毀釈についての情報を得られればと思ったが、それらしき記述は下記を除き、見当たらなかった。1872年までの日記であるため、高鍋藩ではそれ以降に廃物希釈が活発化した可能性があるが、全国的なピークは1868-1871年である。そのため意図的に、あるいは業務と関係ないため記述しなかった可能性がある。

 

明治二年(一八六九)p85

三月十二日是迄寺社与相唱来候得共、以来社寺与相唱候事。
右之通従朝廷被仰出候趣有之候ニ付、前断之通此節御改革ニ相成候間可被其
意候。

 廃物希釈というよりは、神仏分離令の発布について記述されただけである。

 

 都農神社のホームページで大泉寺文書が公開されているので、テーマを決めて読みすすめていきたいです。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/daisenjimonjyo.pdf

永友司日記②

永友司日記① - ひょうすんぼ

 前回からだいぶ時間が空いてしまいましたが、検討を続けます。

  

文久二年( 一八六二) p28ーp32
一一正月廿三日御冬都農金丸肥前死去。倅和太郎酉ノ年十三才、幼少ニ付、後
見之義和太郎親類之者より頼来り御奉行所へも右之趣届差出置候処、左之通
り求人殿より御達有之。
明後廿五日六ツ時、御供揃御乗馬ニ而一ノ宮江被遊御参詣候段被仰出候間、神前
向其外掃除不都合無之様、取斗可被申且被遊御参詣候節者、御幣上候義其方相勤可
被申、尤美々津立岩へも被遊御参詣候ニ付、御出掛類、御帰掛類之所者相分不申候
間、早朝より相詰罷有候而、安政四巳ノ十二月、被遊御参詣候節之通り万端不都合
無之様、取斗可被申候。以上。
(中略)
一同日金丸和太郎方へ遺跡無相違罷□候。尤和太郎并赤木源兵衛両人共ニ病
気ニ付、名代税田正蔵罷出ル。
八幡宮御殿向所々并御供屋損候ニ付、御見分之上御修覆被成下候様奉願候。
(中略)
一二月廿二日都農一宮神主金丸和太郎方幼年ニ付、私方江一躰請持仕候様被
仰付奉畏候、然処遠方掛々之義ニ付、朝夕之神前勤向之義者正祝子石見方江
被仰付候得共、御発駕御下向其他臨時之御参詣、且御祭礼等之節者私方差越
候而相勤可候義ニ御座候哉。又ハ正祝子石見方相勤候而宜御座候哉、此段奉
伺候。以上。
二月廿二日都農社受持永友司
(中略)
一四月廿八日
一檜元木拾五本末ノ口六寸長弐間
一杉元木拾本末ノ口六寸長弐間
右者尾鈴宮破損ニ相成候ニ付此節修覆仕可申候間、右之元木御免被成下候様
奉願候。尤、金丸和太郎幼年ニ付、私方へ一躰請持被仰付候間、尾鈴宮も同
様之義ニ御座候間、私方より奉願候ニ付、何卒御免被成下様奉願候。以上。

 

 都農神社の神主を務めていた金丸通敏は文久元年12月4日に34歳の若さでなくなった。そのあとを継ぐ和太郎が13才と幼年であったため、都農側から申し出があり、家老の命により、永友司が都農神社の神主に就くこととなった。

 なお尾鈴神社の神主も同様の理由により、兼任することとなる。

 

萬延元年( 一八六〇) p19

八月十五日晴。
都農金丸肥前母忌中ニ付、此方へ頼来り候間長照寺へ名代相頼候処、長照寺
より色々六ケ敷義申出候間、以来都農正祝子名代相勤候様都農へ申遣筈 

 

 永友司は城下の神社の神主と性格上、頻繁に藩とやりとりをしており、藩からの信頼も厚かったのであろう。また都農神社との関係性を伺わせる記述は少ないが、上記の記述から頼りにされていたことが伺える。そういった理由で永友司に都農神社の神主を務める依頼がきたのであろう。

 ③に続きます。

西都市・西米良村歴史民俗資料館

 西都市西米良村の歴史民俗資料館を訪れた。

 

西都市歴史民俗資料館

 西都原考古博物館と異なるので注意。古墳のある台地でなく、西都市の市街地に位置している。

 西都原考古博物館に比べると規模は劣るが、展示の趣旨は異なるため見に来る価値はあるであろう。古墳についての展示ももちろんあるが、あくまで西都市全域の歴史や民俗を扱った博物館である。

 都於郡城に関する扱いが大きく、城や周辺の地形図がジオラマで再現されている。また城のパンフレットも配布されているため都於郡城を訪れる前による必要性があるだろう。

 他には国の重要文化財指定を受けている「児湯郡印」や、平安時代から伝わるという三宅神社の刀剣が興味深い。

西都市歴史民俗資料館について | 宮崎県西都市

 

西米良村歴史民俗資料館

 西米良村の中心部に位置している。

 椎葉同様に狩猟や焼き畑が盛んであったため、焼き畑についての展示が半分を占める。

 もう半分は米良の領主であった米良氏の後裔である菊池武夫公についての展示である。菊池武夫公が晩年を過ごした家がそのまま保存されている。現在でも菊池武夫公の孫が毎年訪れているという。

 

 菊池武夫

 一八七五 - 一九五五
大正・昭和時代の軍人、国家主義者。肥後の菊池氏の米良領主の後裔。男爵。明治八年七月二十三日生まれ。父は武臣、母は富。同二十九年、陸軍士官学校卒。同三十九年、陸軍大学校卒。昭和二年三月、陸軍中将。同年七月、予備役。同六年十一月、貴族院議員。勤労聯盟会長、国本社理事、日本学生東亜聯盟会長、国際反共聯盟主要役員。昭和十年二月十八日、第六十七回通常議会の貴族院本会議の国務大臣演説に対する質疑で、菊池議員が美濃部達吉の著作『憲法撮要』『逐条憲法精義』を挙げ、美濃部学説の天皇機関説は国体に対する謀叛明らかな反逆とし、美濃部を学匪として糾弾した。この発言と二月十五日の衆議院予算委員会での江藤源九郎議員の質問が天皇機関説問題の発端である。いわゆる国体明徴運動の中心人物であった。戦後、戦犯として巣鴨拘置所に収容されたが昭和二十二年釈放。同三十年十二月一日死去。八十歳。墓は熊本県菊池市の正観寺にある。法名泰邦院殿孤芳明倫大居士。

国史大辞典)

 

 

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み⑤

5、終わりに

 以上でみてきたように、南原と折口は敗戦との向き合い方や祖先信仰については異なった見解を示したものの、両者はともに戦前から宗教と向き合い続けており、天皇人間宣言を契機としてキリスト教の影響を受けながら、神道の普遍宗教化という同一の思想を1947年という同じ時期に展開した。互いに交流することはなかったと思われる両者であるが、同じ時期に同じ思想を展開する背景があった。

 戦後70年経った今振り返ってみると、両者の切実な願いは叶わず神道は普遍宗教化することはなかった。それどころか普遍宗教を生み出そうとする運動すらほぼなかった。だが政治学民俗学のそれぞれの分野で大きな業績を残した両名が追い求めた思想の意義は現代でも失われていないであろう。

 

 もともと柳田国男を交えた三者で比較する予定であったが、三者を共通して比較出来る要素があまり多くないため断念した。ただ柳田と南原の共同体に対する認識と向き合い方にはかなり共通する部分があり、興味深い。

 

参考資料

南原繁 「文化と国家」、(『新日本文化の創造』)東京大学出版会、2007年

丸山真男著、平石直昭編「丸山眞男座談セレクション(上)」、(『戦後日本の精神革命』)岩波現代文庫、2014年

加藤節 「南原繁 -近代日本と知識人-」岩波新書、1997年

山口周三 「南原繁の生涯-信仰・思想・業績」教文館、2012年

折口信夫 「折口信夫全集 第二十巻」(『神道の新しい方向』、『神道宗教化の意義』、『民族教より人類教へ』)中央公論社、1967年

中村生雄 「折口信夫の戦後天皇論」法蔵館、1995年

柄谷行人 「遊動論 柳田国男と山人」文春新書、2014年

西田 彰一 「宗教ナショナリズム南原繁

斉藤英喜 「折口信夫の可能性へ -たたり・アマテラス・既存者をめぐって」

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み④

⑤祖先信仰

 祖先信仰について両者は明確な違いを示している。

 南原は祖先信仰について明言していないものの、おそらく祖先信仰を切り離すことは考えていなかっと思われる。

「そこに私は、日本の神話なり、歴史を生かす道があると思う。たとえばあの神話においては、われわれの祖先は遠く昔から日本民族の永遠性を信じている。どこの民族もそうでしょうが、ことに神国といっているところに、象徴的な意味がある。」[1]

丸山真男との対談で南原は上記のように述べたあと、以下のように丸山に批判されている。

神話に普遍的意味を与えるのは非常に難しいところだと思うのです。「神の国」という概念は、やはり先生は、根本にキリスト教的な考え方から考えられますけれども、日本の実際では氏族神になるのですね。ですから、皇室の祖先だし、どこまで遡ってみても祖先神はやはり特殊者にすぎない。特殊者を越えた、普遍者という観念にはならないのですね。」[2] 

 丸山の批判に対し南原は反論をしていないが、丸山の指摘はもっともである。祖先信仰を切り離さければ、共通の祖先をもたない他民族に通用する普遍的な宗教となることは出来ないであろう。

 折口はこのことに気づいていたのかはわからないが、神道から祖先信仰を切り離すことを執拗に主張している。

「われわれはまづ、産霊神を祖先として感ずることを止めなければなりません。宗教の神を、われわれ人間の祖先であるといふ風に考へるのは、神道教を誤謬に導くものです。それからして、宗教と関係の薄い特殊な倫理観をすら導き込むやうになつたのです。だからまづ其最初の難点であるところの、これらの大きな神々をば、われわれの人間系図の中から引き離して、系図以外に独立した宗教上の神として考へるのが、至当だと思ひます。」[3]

 

[1]丸山真男著、平石直昭編「丸山眞男座談セレクション(上)」、(『戦後日本の精神革命』)岩波現代文庫、2014年

[2] 丸山真男 同上

[3]折口信夫 同上 『神道の新しい方向』

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み③

キリスト教との関わり

 両者ともに普遍宗教であるキリスト教との関わりが、神道の普遍宗教化を展開する背景になったと思われる。

 南原は21歳のときに内村鑑三の影響によってキリスト教無教会主義に入信し、以降も信仰を続けている。だからこそ以下のように神道を普遍宗教にしようと試みたのである。

 民族宗教的な日本神学からの解放は、単なる人文主義理想よって代置し得られるものでなく、宗教に代うるには同じく宗教をもってすべく、ここに新たに普遍人類的なる世界宗教との対決を、いまこそ国民としてまじめに遂行すべき秋であると思う。」[1]

 一方でキリスト教と無関係なように見える折口もキリスト教の影響を受けている。そもそも民俗学は江戸時代以前の国学の系譜をひいており、折口の師匠である柳田国男の父も平田派の神官であった。そして平田篤胤キリスト教の影響を大きく受けていたのである。そのためキリスト教の思想が民俗学にも流れていたと思われる。

 また折口は終戦前にキリスト牧師集団に聞いた話に大きな衝撃を受けている。

 「「アメリカの青年達は、我々と違って、この戦争にえるされむを回復する為に起された十字軍のような、非常な情熱をもち初めているかもしれない」という詞を聴いた時に、私は愕然とした。」[2]

 こういった経験から折口信夫神道普遍宗教化の着想を得たと思われる。

 

天皇人間宣言が与えた影響

 両者ともに天皇人間宣言によってその神格化が否定されたことを神道普遍宗教化の重要な契機としている。

 「本年初頭の詔書はすこぶる重大な歴史的意義をもつものといわなければならぬ。すなわち、天皇は「現人神」としての神格を自ら否定せられ、天皇と国民との結合の紐帯は、いまや一に人間としての相互の信頼と敬愛である。これは日本神学と神道的教義からの天皇御自身の解放、その人間性の独立の宣言である。

 それは同時に、わが国文化とわが国民の新たな「世界性」への解放と称し得るであろう。なぜならば。ここに初めて、わが国の文化がわれに特殊なる民俗的宗教的束縛を脱して、広く世界に理解せらるべき人文主義的普遍の基礎を確然と取得したのであり、国民は国民たると同時に世界市民として自らを形成し得る根拠を、ほかならぬ詔書によって裏づけられたからである。」[3]

 

 「神道と宮廷とが特に結ばれて考へられて来た為に、神道は国民道徳の源泉だと考へられ、余りにも道徳的に理会されて来たのであう。この国民道徳と密接な関係のある神道が、世界の宗教になることはむつかしい。(中略)しかしながら天皇は先に御自らの「神」を否定し給うた。それにより我々は、これまでの神道と宮廷との特殊な関係を去ってしまつた、と解してよい。」[4]

 以上で引用したように神道が日本国民のみの教義から脱却して、普遍宗教になるためには天皇人間宣言は不可欠なものであったため、両名とも同様の議論を展開した。

 

[1] 南原繁 同上

[2] 折口信夫 同上

[3]南原繁 同上

[4] 折口信夫 同上『民族教より人類教へ』