ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

西都市・西米良村歴史民俗資料館

 西都市西米良村の歴史民俗資料館を訪れた。

 

西都市歴史民俗資料館

 西都原考古博物館と異なるので注意。古墳のある台地でなく、西都市の市街地に位置している。

 西都原考古博物館に比べると規模は劣るが、展示の趣旨は異なるため見に来る価値はあるであろう。古墳についての展示ももちろんあるが、あくまで西都市全域の歴史や民俗を扱った博物館である。

 都於郡城に関する扱いが大きく、城や周辺の地形図がジオラマで再現されている。また城のパンフレットも配布されているため都於郡城を訪れる前による必要性があるだろう。

 他には国の重要文化財指定を受けている「児湯郡印」や、平安時代から伝わるという三宅神社の刀剣が興味深い。

西都市歴史民俗資料館について | 宮崎県西都市

 

西米良村歴史民俗資料館

 西米良村の中心部に位置している。

 椎葉同様に狩猟や焼き畑が盛んであったため、焼き畑についての展示が半分を占める。

 もう半分は米良の領主であった米良氏の後裔である菊池武夫公についての展示である。菊池武夫公が晩年を過ごした家がそのまま保存されている。現在でも菊池武夫公の孫が毎年訪れているという。

 

 菊池武夫

 一八七五 - 一九五五
大正・昭和時代の軍人、国家主義者。肥後の菊池氏の米良領主の後裔。男爵。明治八年七月二十三日生まれ。父は武臣、母は富。同二十九年、陸軍士官学校卒。同三十九年、陸軍大学校卒。昭和二年三月、陸軍中将。同年七月、予備役。同六年十一月、貴族院議員。勤労聯盟会長、国本社理事、日本学生東亜聯盟会長、国際反共聯盟主要役員。昭和十年二月十八日、第六十七回通常議会の貴族院本会議の国務大臣演説に対する質疑で、菊池議員が美濃部達吉の著作『憲法撮要』『逐条憲法精義』を挙げ、美濃部学説の天皇機関説は国体に対する謀叛明らかな反逆とし、美濃部を学匪として糾弾した。この発言と二月十五日の衆議院予算委員会での江藤源九郎議員の質問が天皇機関説問題の発端である。いわゆる国体明徴運動の中心人物であった。戦後、戦犯として巣鴨拘置所に収容されたが昭和二十二年釈放。同三十年十二月一日死去。八十歳。墓は熊本県菊池市の正観寺にある。法名泰邦院殿孤芳明倫大居士。

国史大辞典)

 

 

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み⑤

5、終わりに

 以上でみてきたように、南原と折口は敗戦との向き合い方や祖先信仰については異なった見解を示したものの、両者はともに戦前から宗教と向き合い続けており、天皇人間宣言を契機としてキリスト教の影響を受けながら、神道の普遍宗教化という同一の思想を1947年という同じ時期に展開した。互いに交流することはなかったと思われる両者であるが、同じ時期に同じ思想を展開する背景があった。

 戦後70年経った今振り返ってみると、両者の切実な願いは叶わず神道は普遍宗教化することはなかった。それどころか普遍宗教を生み出そうとする運動すらほぼなかった。だが政治学民俗学のそれぞれの分野で大きな業績を残した両名が追い求めた思想の意義は現代でも失われていないであろう。

 

 もともと柳田国男を交えた三者で比較する予定であったが、三者を共通して比較出来る要素があまり多くないため断念した。ただ柳田と南原の共同体に対する認識と向き合い方にはかなり共通する部分があり、興味深い。

 

参考資料

南原繁 「文化と国家」、(『新日本文化の創造』)東京大学出版会、2007年

丸山真男著、平石直昭編「丸山眞男座談セレクション(上)」、(『戦後日本の精神革命』)岩波現代文庫、2014年

加藤節 「南原繁 -近代日本と知識人-」岩波新書、1997年

山口周三 「南原繁の生涯-信仰・思想・業績」教文館、2012年

折口信夫 「折口信夫全集 第二十巻」(『神道の新しい方向』、『神道宗教化の意義』、『民族教より人類教へ』)中央公論社、1967年

中村生雄 「折口信夫の戦後天皇論」法蔵館、1995年

柄谷行人 「遊動論 柳田国男と山人」文春新書、2014年

西田 彰一 「宗教ナショナリズム南原繁

斉藤英喜 「折口信夫の可能性へ -たたり・アマテラス・既存者をめぐって」

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み④

⑤祖先信仰

 祖先信仰について両者は明確な違いを示している。

 南原は祖先信仰について明言していないものの、おそらく祖先信仰を切り離すことは考えていなかっと思われる。

「そこに私は、日本の神話なり、歴史を生かす道があると思う。たとえばあの神話においては、われわれの祖先は遠く昔から日本民族の永遠性を信じている。どこの民族もそうでしょうが、ことに神国といっているところに、象徴的な意味がある。」[1]

丸山真男との対談で南原は上記のように述べたあと、以下のように丸山に批判されている。

神話に普遍的意味を与えるのは非常に難しいところだと思うのです。「神の国」という概念は、やはり先生は、根本にキリスト教的な考え方から考えられますけれども、日本の実際では氏族神になるのですね。ですから、皇室の祖先だし、どこまで遡ってみても祖先神はやはり特殊者にすぎない。特殊者を越えた、普遍者という観念にはならないのですね。」[2] 

 丸山の批判に対し南原は反論をしていないが、丸山の指摘はもっともである。祖先信仰を切り離さければ、共通の祖先をもたない他民族に通用する普遍的な宗教となることは出来ないであろう。

 折口はこのことに気づいていたのかはわからないが、神道から祖先信仰を切り離すことを執拗に主張している。

「われわれはまづ、産霊神を祖先として感ずることを止めなければなりません。宗教の神を、われわれ人間の祖先であるといふ風に考へるのは、神道教を誤謬に導くものです。それからして、宗教と関係の薄い特殊な倫理観をすら導き込むやうになつたのです。だからまづ其最初の難点であるところの、これらの大きな神々をば、われわれの人間系図の中から引き離して、系図以外に独立した宗教上の神として考へるのが、至当だと思ひます。」[3]

 

[1]丸山真男著、平石直昭編「丸山眞男座談セレクション(上)」、(『戦後日本の精神革命』)岩波現代文庫、2014年

[2] 丸山真男 同上

[3]折口信夫 同上 『神道の新しい方向』

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み③

キリスト教との関わり

 両者ともに普遍宗教であるキリスト教との関わりが、神道の普遍宗教化を展開する背景になったと思われる。

 南原は21歳のときに内村鑑三の影響によってキリスト教無教会主義に入信し、以降も信仰を続けている。だからこそ以下のように神道を普遍宗教にしようと試みたのである。

 民族宗教的な日本神学からの解放は、単なる人文主義理想よって代置し得られるものでなく、宗教に代うるには同じく宗教をもってすべく、ここに新たに普遍人類的なる世界宗教との対決を、いまこそ国民としてまじめに遂行すべき秋であると思う。」[1]

 一方でキリスト教と無関係なように見える折口もキリスト教の影響を受けている。そもそも民俗学は江戸時代以前の国学の系譜をひいており、折口の師匠である柳田国男の父も平田派の神官であった。そして平田篤胤キリスト教の影響を大きく受けていたのである。そのためキリスト教の思想が民俗学にも流れていたと思われる。

 また折口は終戦前にキリスト牧師集団に聞いた話に大きな衝撃を受けている。

 「「アメリカの青年達は、我々と違って、この戦争にえるされむを回復する為に起された十字軍のような、非常な情熱をもち初めているかもしれない」という詞を聴いた時に、私は愕然とした。」[2]

 こういった経験から折口信夫神道普遍宗教化の着想を得たと思われる。

 

天皇人間宣言が与えた影響

 両者ともに天皇人間宣言によってその神格化が否定されたことを神道普遍宗教化の重要な契機としている。

 「本年初頭の詔書はすこぶる重大な歴史的意義をもつものといわなければならぬ。すなわち、天皇は「現人神」としての神格を自ら否定せられ、天皇と国民との結合の紐帯は、いまや一に人間としての相互の信頼と敬愛である。これは日本神学と神道的教義からの天皇御自身の解放、その人間性の独立の宣言である。

 それは同時に、わが国文化とわが国民の新たな「世界性」への解放と称し得るであろう。なぜならば。ここに初めて、わが国の文化がわれに特殊なる民俗的宗教的束縛を脱して、広く世界に理解せらるべき人文主義的普遍の基礎を確然と取得したのであり、国民は国民たると同時に世界市民として自らを形成し得る根拠を、ほかならぬ詔書によって裏づけられたからである。」[3]

 

 「神道と宮廷とが特に結ばれて考へられて来た為に、神道は国民道徳の源泉だと考へられ、余りにも道徳的に理会されて来たのであう。この国民道徳と密接な関係のある神道が、世界の宗教になることはむつかしい。(中略)しかしながら天皇は先に御自らの「神」を否定し給うた。それにより我々は、これまでの神道と宮廷との特殊な関係を去ってしまつた、と解してよい。」[4]

 以上で引用したように神道が日本国民のみの教義から脱却して、普遍宗教になるためには天皇人間宣言は不可欠なものであったため、両名とも同様の議論を展開した。

 

[1] 南原繁 同上

[2] 折口信夫 同上

[3]南原繁 同上

[4] 折口信夫 同上『民族教より人類教へ』

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み②

4、南原と折口の比較

 ①戦前の学問的業績

まず両者の戦前の学問的業績に着目したい。

 南原は「基督教の「神の国」とプラトンの国家理念-神政政治思想の批判の為に-」(1937年)や「国家と宗教―ヨーロッパ精神史の研究―」(1942年)など、キリスト教と国家や共同体の関わりを扱った著作を残している。

 一方折口は「古代研究」(1929年)や「古代人の信仰」(1942年)などで宗教としての神道のあり方を模索している。

敗戦を意識していたわけではないであろうが、戦前から準備していたからこそ、その思想を発展させる形で神道の普遍宗教化の試みを発表することが出来た。両者とも50代後半と学者として円熟味が増していたことも無関係ではないであろう。

 

②敗戦との向き合い

 両者とも戦前の神道のあり方が敗戦につながったとする。しかしながら両者の大戦との向き合い方は微妙に異なる。

 「かようにして中日事変は起こり、太平洋戦争は開始せられ、そして遂に現在の破局と崩壊に導かれたのである。事ここに到ったのは軍閥ないし一部官僚や政治家の無知と野心からのみでなく、その由って来たるところ深く国民自身の内的欠陥にある。

それは何か。国民には熾烈な民族意識はあったが、おのおのが一個独立の人間としての人間意識の確立と人間性の発展がなかったことである。」[1]

 上記で述べているように、南原は戦争を引き起こした原因を戦前の国体や日本神学に求めている。

 一方で折口は戦争が起きた原因ではなく、戦争に負けた原因を戦前の神道に求めている。

 「神様が敗れたということは、我々が宗教的な生活をせず、我々の行為が神に対する情熱を無視し、神を汚したから神の威力が発揮出来なかった、と言うことになる。つまり、神々に対する感謝と懺悔とが、足りなかったということであると思う。」[2]

 この両者の違いは、普遍宗教の信仰のあり方にもつながる。

 「およそ人は人間性をいかに広く豊潤に生きえたとしても、それだけでは真に人間個性の自覚に到達することは不可能と考えなければならない。それには必ずや人間主観の内面をされにつきつめ、そこに横たわる自己自身の矛盾を意識し、人間を超えた超主観的な絶対精神-「神の発見」と、それによる自己克服がなされなければならない。」[3]

 このように南原は普遍宗教の信仰をあくまで人間性の発展の手段であると捉えている。だが折口は先に見たように宗教における情熱を重視したために、情熱的な信仰を生み出しうるキリストやヤハウェのような教祖を求めた。

 「宗教は自覚者が出で来ねばならぬので、そう注文通りには行かぬ。だからその教祖が現れて来なければ我々の望むような宗教が現れて来ないのは当然だ」[4]

 

[1]南原繁 「文化と国家」、(『新日本文化の創造』)東京大学出版会、2007年

[2]折口信夫 「折口信夫全集 第二十巻」『神道宗教化の意義』、中央公論社、1967年

[3] 南原繁 同上

[4] 折口信夫 同上

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み①

1、はじめに

 本論では、南原繁折口信夫が敗戦直後の日本において行った神道普遍宗教化の試みについて比較検討する。

敗戦直後の時期に日本の思想的基軸を模索した人として他に高坂正堯ら京都学派や柳田国男などがあげられる。その中にあって南原、折口の両名は、キリスト教を参考に神道を普遍宗教化しようとするという似通った思想を展開した。政治学民俗学という異なった分野を探求する、それぞれの分野の第一人者が、似た思想に同じ時期にたどり着いた背景は興味深く、本論で探っていきたい。

 

2、南原繁神道普遍宗教化の試み

南原は1946年2月の紀元節に東大で「新日本文化の創造」と題する演説を行った。この演説の中で南原は神道普遍宗教化について述べた。以下で要約する。

 南原によれば先の大戦の原因は、国民に熾烈な民族意識がなく、おのおのが一個独立の人間としての確立と人間性への発展がなかったことにあるという。そのために人間個人が国体の観念にあてはめられ、自己判断の自由が拘束されてしまった。

 しかし敗戦後に天皇人間宣言を行ったことで神道的教義から天皇が開放され、日本の文化が特殊な民族宗教的束縛を脱することが出来た。単に開放されるだけでは人間の完成をみることは出来ない。人間主観の内面をつきつめ、人間を超えた超主観的な絶対精神すなわち「神の発見」とそれによる自己克服が必要である。そのためには新たな国民精神の創造をしなければならない。

 

3、折口信夫神道普遍宗教化の試み

 折口は1946年から1949年にかけて「民族教より人類教へ」や「神道宗教化の意義」、「神道の新しい方向」といった論考の中で神道の普遍宗教化について考えている。以下で要約する。

 折口によれば先の大戦の敗因は、国民の宗教的情熱が足りなかったゆえに神が威力を発揮出来なかったことにあるという。そもそも戦前の神道のあり方は誤っていた。しかし天皇人間宣言によって宮廷と神道が分離され、神道が普遍宗教化する機運を得た。神道を祖先信仰から切り離して神学体系を整備し、宗教的自覚者が現れるのを待たねばならない。