ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み②

4、南原と折口の比較

 ①戦前の学問的業績

まず両者の戦前の学問的業績に着目したい。

 南原は「基督教の「神の国」とプラトンの国家理念-神政政治思想の批判の為に-」(1937年)や「国家と宗教―ヨーロッパ精神史の研究―」(1942年)など、キリスト教と国家や共同体の関わりを扱った著作を残している。

 一方折口は「古代研究」(1929年)や「古代人の信仰」(1942年)などで宗教としての神道のあり方を模索している。

敗戦を意識していたわけではないであろうが、戦前から準備していたからこそ、その思想を発展させる形で神道の普遍宗教化の試みを発表することが出来た。両者とも50代後半と学者として円熟味が増していたことも無関係ではないであろう。

 

②敗戦との向き合い

 両者とも戦前の神道のあり方が敗戦につながったとする。しかしながら両者の大戦との向き合い方は微妙に異なる。

 「かようにして中日事変は起こり、太平洋戦争は開始せられ、そして遂に現在の破局と崩壊に導かれたのである。事ここに到ったのは軍閥ないし一部官僚や政治家の無知と野心からのみでなく、その由って来たるところ深く国民自身の内的欠陥にある。

それは何か。国民には熾烈な民族意識はあったが、おのおのが一個独立の人間としての人間意識の確立と人間性の発展がなかったことである。」[1]

 上記で述べているように、南原は戦争を引き起こした原因を戦前の国体や日本神学に求めている。

 一方で折口は戦争が起きた原因ではなく、戦争に負けた原因を戦前の神道に求めている。

 「神様が敗れたということは、我々が宗教的な生活をせず、我々の行為が神に対する情熱を無視し、神を汚したから神の威力が発揮出来なかった、と言うことになる。つまり、神々に対する感謝と懺悔とが、足りなかったということであると思う。」[2]

 この両者の違いは、普遍宗教の信仰のあり方にもつながる。

 「およそ人は人間性をいかに広く豊潤に生きえたとしても、それだけでは真に人間個性の自覚に到達することは不可能と考えなければならない。それには必ずや人間主観の内面をされにつきつめ、そこに横たわる自己自身の矛盾を意識し、人間を超えた超主観的な絶対精神-「神の発見」と、それによる自己克服がなされなければならない。」[3]

 このように南原は普遍宗教の信仰をあくまで人間性の発展の手段であると捉えている。だが折口は先に見たように宗教における情熱を重視したために、情熱的な信仰を生み出しうるキリストやヤハウェのような教祖を求めた。

 「宗教は自覚者が出で来ねばならぬので、そう注文通りには行かぬ。だからその教祖が現れて来なければ我々の望むような宗教が現れて来ないのは当然だ」[4]

 

[1]南原繁 「文化と国家」、(『新日本文化の創造』)東京大学出版会、2007年

[2]折口信夫 「折口信夫全集 第二十巻」『神道宗教化の意義』、中央公論社、1967年

[3] 南原繁 同上

[4] 折口信夫 同上

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み①

1、はじめに

 本論では、南原繁折口信夫が敗戦直後の日本において行った神道普遍宗教化の試みについて比較検討する。

敗戦直後の時期に日本の思想的基軸を模索した人として他に高坂正堯ら京都学派や柳田国男などがあげられる。その中にあって南原、折口の両名は、キリスト教を参考に神道を普遍宗教化しようとするという似通った思想を展開した。政治学民俗学という異なった分野を探求する、それぞれの分野の第一人者が、似た思想に同じ時期にたどり着いた背景は興味深く、本論で探っていきたい。

 

2、南原繁神道普遍宗教化の試み

南原は1946年2月の紀元節に東大で「新日本文化の創造」と題する演説を行った。この演説の中で南原は神道普遍宗教化について述べた。以下で要約する。

 南原によれば先の大戦の原因は、国民に熾烈な民族意識がなく、おのおのが一個独立の人間としての確立と人間性への発展がなかったことにあるという。そのために人間個人が国体の観念にあてはめられ、自己判断の自由が拘束されてしまった。

 しかし敗戦後に天皇人間宣言を行ったことで神道的教義から天皇が開放され、日本の文化が特殊な民族宗教的束縛を脱することが出来た。単に開放されるだけでは人間の完成をみることは出来ない。人間主観の内面をつきつめ、人間を超えた超主観的な絶対精神すなわち「神の発見」とそれによる自己克服が必要である。そのためには新たな国民精神の創造をしなければならない。

 

3、折口信夫神道普遍宗教化の試み

 折口は1946年から1949年にかけて「民族教より人類教へ」や「神道宗教化の意義」、「神道の新しい方向」といった論考の中で神道の普遍宗教化について考えている。以下で要約する。

 折口によれば先の大戦の敗因は、国民の宗教的情熱が足りなかったゆえに神が威力を発揮出来なかったことにあるという。そもそも戦前の神道のあり方は誤っていた。しかし天皇人間宣言によって宮廷と神道が分離され、神道が普遍宗教化する機運を得た。神道を祖先信仰から切り離して神学体系を整備し、宗教的自覚者が現れるのを待たねばならない。

 

永友司日記①

 定期更新が途絶えてしまい、申し訳ないです。

 可能な限り長く続けられるよう2週に一度の更新を目安にしばらくは続けていきたいと思います。

 

 都農神社のホームページで永友司日記が読めるようになっている。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/tunoookamisaidpage22.html

 プライベートについての日記というよりは、業務日誌のようなものとなっている。

 

 ホームページの紹介にある通り、永友司は都農神社の神主を務めたがもとは高鍋八幡宮の神主であった。

 都農神社の神主は江戸時代は代々金丸氏が務めてきた。遅くとも1578年には都農神社の神主を務めていたことは文字資料によって確認出来る。また江戸時代に神主職が金丸氏によって受け継がれていたことも文字資料によって確認出来る。金丸氏は現在、八坂神社を中心として都農町内の神社の大半の神主を務めている。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/picturepage/tunojinjyahistory.pdf

 一方永友氏は断続的にではあるものの、都農神社の神主を務めており、現職および先代の神主は永友氏となっている。

 明治に入ると、国幣社の神主は国からの任官制となった。都農神社も国幣社であるため、神主は任官制となったと思われる。

 しかし金丸氏から永友氏への神主の交代は、江戸時代末期の1862年に起きた。金丸氏の跡取りが13歳と幼年であったことが、理由となっているが、永友司日記をもとに確認したい。

  

定期更新休止

 週に一度毎週土曜日更新という形で続けて来ましたが、記事のネタ不足に困っており、しばらく休止したいと思います。

 今後は不定期更新という形をとります。夏には都農にいくため8月中にはまとまった内容をかけるかなと思っています。

 もし楽しみにしていた方がいらっしゃったら申し訳ないです。

 コメントのチェックは行うので、気兼ねなくコメントしていただけたらと思います。

 

 

竜神

 都農の明田の浜に竜神様が祀られている。

 場所はわかりにくいが、リニアモーターカーの実験線をくぐって海にでて海沿いを北に歩いたところにある。

 

 以前紹介した浦島太郎伝説と関わりがあるようで、浦島太郎がこの地に上陸したことが由来となっているそうである。(つの町ふるさと物語)

 航海の安全と豊漁がご利益となっている。

 

 辺鄙な場所にあるが、信仰を集めているようで、広報つのによれば竜神会主催のもとで神事が行われたようである。

 また広報つのによれば、瓦工場の資材をもちよって作られたそうで、ここ100年ほどのことであろう。

 

広報つの - 都農町(平成30年3月号)

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塵添壒囊抄 考察

   2週に渡って紹介し た塵添壒囊抄の説話はどのような経緯で生まれたのであろうか。

 

 説話から伺われることは、大きく5つある。

①都農神社成立の権威付け

 神功皇后の遠征において勧請されたという形で権威づけをしている。

②航海の安全というご利益

 船の守り神として勧請されていることを見るに航海の安全というご利益があったと思われる。おそらく近隣の航海や漁にあたって尾鈴山が目印となっていたのであろう。

③疱瘡(天然痘)の大流行

 二人になってしまったというのは、過剰な表現ではあると思うが、疱瘡の大流行により人口が激減してしたことが伺える。

④疱瘡治癒のご利益

 疱瘡の流行が収束したのちに、疱瘡治癒のご利益を謳う説話が生まれたと思われる。

 また柳田国男の著作に山の背くらべをする逸話が数多く出てくるが、疱瘡と山の背くらべも同系統の逸話であり、そういった逸話の流行が都農に及んでいたことが伺える。

 

⑤東南アジア?

 「頭黒」という謎の存在が登場するが、地中から頭を出すという類型の逸話は東南アジアや台湾に見られるものであるという話しを何かで読んだ。(思い出し次第追記します)東南アジア系の逸話の流行が都農にまで及んでいたことも伺える。