ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

竜神

 都農の明田の浜に竜神様が祀られている。

 場所はわかりにくいが、リニアモーターカーの実験線をくぐって海にでて海沿いを北に歩いたところにある。

 

 以前紹介した浦島太郎伝説と関わりがあるようで、浦島太郎がこの地に上陸したことが由来となっているそうである。(つの町ふるさと物語)

 航海の安全と豊漁がご利益となっている。

 

 辺鄙な場所にあるが、信仰を集めているようで、広報つのによれば竜神会主催のもとで神事が行われたようである。

 また広報つのによれば、瓦工場の資材をもちよって作られたそうで、ここ100年ほどのことであろう。

 

広報つの - 都農町(平成30年3月号)

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塵添壒囊抄 考察

   2週に渡って紹介し た塵添壒囊抄の説話はどのような経緯で生まれたのであろうか。

 

 説話から伺われることは、大きく5つある。

①都農神社成立の権威付け

 神功皇后の遠征において勧請されたという形で権威づけをしている。

②航海の安全というご利益

 船の守り神として勧請されていることを見るに航海の安全というご利益があったと思われる。おそらく近隣の航海や漁にあたって尾鈴山が目印となっていたのであろう。

③疱瘡(天然痘)の大流行

 二人になってしまったというのは、過剰な表現ではあると思うが、疱瘡の大流行により人口が激減してしたことが伺える。

④疱瘡治癒のご利益

 疱瘡の流行が収束したのちに、疱瘡治癒のご利益を謳う説話が生まれたと思われる。

 また柳田国男の著作に山の背くらべをする逸話が数多く出てくるが、疱瘡と山の背くらべも同系統の逸話であり、そういった逸話の流行が都農に及んでいたことが伺える。

 

⑤東南アジア?

 「頭黒」という謎の存在が登場するが、地中から頭を出すという類型の逸話は東南アジアや台湾に見られるものであるという話しを何かで読んだ。(思い出し次第追記します)東南アジア系の逸話の流行が都農にまで及んでいたことも伺える。

 

山の背くらべ

 いざ「塵添壒囊抄」を現代語に訳してみると、どこかで見覚えがあるような気がした。気になって柳田国男の著作を漁ってみると、「日本の伝説」という著作にほぼ同じエピソードが載っていた。

 「日本の伝説」日本に伝わる伝承や伝説をある程度類型化してまとめて掲載したもので1940年に発行された。おそらく「日本伝説名彙」(伝承の辞典)をすでに企図していたのであろう。青空文庫で読めるのでリンクを貼っておいた。

 柳田国男自身は「塵袋」から引用したとしているが、「塵添壒囊抄」は「塵袋」を参照して作られたものなので、両者に差異はないと思われる。

 

もとはほんとうにあったことのように思っていた人もあったのかも知れません。そうでなくとも、よその山の高いという噂をするということは、なるたけひかえるようにしていたらしいのであります。多くの昔話はそれから生れ、また時としてそれをまじないに利用する者もありました。例えば昔日向国ひゅうがのくにの人は、ようというできものの出来た時に、吐濃峯とののみねという山に向ってこういう言葉を唱えて拝んだそうであります。私は常にあなたを高いと思っていましたが、私のでき物が今ではななたよりも高くなりました。もしお腹が立つならば、早くこのできものを引っ込ませて下さいといって、毎朝一二度ずつきねのさきをそのおできに当てると、三日めには必ず治るといっておりました。これも山の神が自分より高くなろうとする者をにくんで、急いでその杵をもってたたき伏せるように、こういう珍しい呪文じゅもんを唱えたものかと思います。(塵袋七。宮崎県児湯こゆ郡都農村)

柳田國男 日本の伝説

 

"ちりぶくろ【塵袋】",

鎌倉中期の辞書。一一巻。著者不詳(釈良胤とも)。文永・弘安(一二六四〜八八)頃の成立。事物の起源六二〇条を天象・神祇などの部門別に分類し、問答体で示したもの。後に二〇一か条が「嚢鈔(あいのうしょう)」と合体して「塵添嚢抄」となった。

 日本国語大辞典, JapanKnowledge

 

塵添壒囊抄 訳

  塵添壒囊抄に都農神社についての記述が存在する。度々取り上げてがいるが、訳を作っておきたいと思う。塵添壒囊抄の説明については最期に引用する。古文は苦手なので修正点があれば指摘してください。

 

 原文

 日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。神ヲハス、吐乃大明神トソ申スナル。昔シ神功皇后新羅ヲウチ給シ時、此ノ神ヲ請シ給テ、御船ニノセ給テ、船ノ舳ヲ護ラシメ給ケルニ、新羅ヲウチトリテ帰リ給テ後、韜馬ノ峯ト申ス所ニヲハシテ、弓射給ケル時、土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、弓ノハズニテ堀出シ給ケレバ、男一人女一人ソ有ケル。其ヲ神人トシテ召仕ヒケリ、其ノ子孫今ニ残レリ。是ヲ頭黒ト云う。始テホリ出サルル時、頭黒サシ出タリケル故ニヤ、子孫ハヒロゴリケルカ。疫病ニ死シ失テ、二人ニナリタリケリ。其ノ事ヲカノ國ニ記ニ云ヘルニハ、日々ニ死ニツキテ僅ニ残ル男女両口ト云ヘリ。是 國守神人ヲカリツカヒテ國役シタガワシムル故ニ、明神イカリヲナシ給テ、アシキ病起リテ死ニケル也。是ヲ思へバ、男女ヲモ口トハ云フベキニコソト覚ルナリ。吐濃大明神疱瘡ヲマジナフニ、必ズイヤシ給トカヤ、カノ國ノ人ハ明神ノ御方ニ向テ、頌文シテ云。五常以汝為高、今者此物高於汝、若有懐憤、宜令平却ト唱ヘテ、杵ト云フモノヲシテ、朝ゴトニ三度アツルコト三日スレバ、疱瘡イユト云ヘリ。コトノツイデナレバシメス。

 

 訳文(敬語略)

 日向国古庚郡、通常は兒湯郡と書くところに、吐濃ノ峯という峯がある。神がいて、吐乃大明神という。昔神功皇后新羅を伐ちに向かった時、この神を勧請して、船に乗せて、船の舳先を護らせた。新羅を伐ちとって帰った後、韜馬ノ峯というところにいて、弓を射た時、土の中より黒き物が頭を出していたのを、弓の筈で掘り出してみると、男一人女一人がいた。それを神人として召し抱え、その子孫が今に残っている。これを「頭黒」という。始めて掘り出された時、頭黒を出していた故で、子孫は繁栄しているだろうか。疫病で死んでしまって、二人になった。そのことをかの國ニ記?いうところでは、日々二人死に僅かに残る男女両口であるという。これは国守が神人を使って国の役として従わせたために、(吐乃大)明神怒りをなして、悪しき病が起こって死んだ。これを思うと、男女を「もろ」という数えるべきであると思う。(数え方についてこの前の文で説明していた)吐濃大明神は疱瘡をまじなうに、必ず癒やすという、かの国の人は明神の方に向かって頌文(仏の功徳をほめたたえる韻文)していう。「常にはは汝(明神)を高いと思っていたが、今この物(疱瘡)汝より高し、もし懐憤があるならば、平らにするべし」と唱えて。杵というもので、朝毎に二三度あてること3日すれば、疱瘡癒えるという。ことのついでであるが示す。

 

 室町時代末期に編さんされた類書。20巻,古刊本20冊。1532年(天文1)の序文に編者の僧某がしるしているように,すでに流布の《壒囊鈔》の巻々に《塵袋(ちりぶくろ)》から選択した201項を本文のまま配し添え,計737項を編さんしたもの。中世的な学殖をもって,仏教・世俗にわたる故事の説明がなされており,中世の学芸・風俗・言語の趣を知るべき直接の資料をもなしている。

世界大百科事典 第2版

 

 

民譚

 私は民俗学に関心をもっている以上、柳田国男の「遠野物語」や宮本常一「忘れられた日本人」のような民俗説話に関心はもっている。

 今までこのブログではそういった民俗説話は扱って来なかった。説話それ自体が個人情報に該当する部分もあり、また私の文体がやや硬めで説話に仕立て難かったのがその理由である。

 しかし個人情報がわからないようにごまかしながら、伺ったお話しを説話として書いてみようと思う。試験的なものであり、後に消すかもしれません。

 

 私は人が信仰をもつきっかけに興味をもっている。たまたま強い信仰を持つ人のお話しを伺えたので、記そうと思う。

 たまたま訪れた神社で、掃除をしている人がいた。様子を見るに、神職という風でもない。そこで何故掃除をしているのか尋ねてみた。すると掃除をしているのみならず、像まで寄進しているという。そして強い信仰を持った経緯を語ってくださった。

 その人が重い病に倒れ生死の境をさまよった時、病床に白髪の老人が現れそして2匹の龍に変化したという。龍が「目を覚ませ」と言うと、意識が戻り病が回復に向かった。龍は神社の守り神に違いないと考えたそうだ。何故なら龍に変化した白髪の老人に心当たりがあったからである。

 曰く話しは50年以上前に遡る。まだ若かったころ、親の都合で結婚させられることになったそうだ。その人はあまりの不幸を嘆き、バスに乗って遠くの町まで逃げようとし、覚悟を決めてバス停に行った。バス停に着くと見慣れない白髪のおじいさんが話しかけて来て予言めいたことを言ってきたのだという。結婚相手のことや、将来の子供のことなど、どういった人生を送ることになるのかついて話しを聞くうちに、真っ黒に見えた未来が明るくなり、考えを変えて町に残り結婚することにしたそうだ。

 振り返って考えてみると、その時話しかけて来た白髪の老人は龍神様で、どうしようもなく辛い時に手を差し伸べてくれる神様ではないかと。そう思い助けてくれた神様に感謝して、毎日掃除しているののだという。

 

 

 

都農の方に聞きたいこと 改訂版その2

 以前も同様の記事を作成したのだが、半年以上経って聞きたいことも変化したので、再度改めて作ることにしました。追加した質問は⑥以降になります。

 各質問に関連した記事を質問の下にリンクしたので、興味のあるかたは覗いてみてください。

 これらの質問以外の関することでも何かありましたら、コメントしていただけると幸いです。

 

尾鈴山を「ささが丘」や「ほこの峰」と呼んだこと、あるいは呼んでいるのを聞いたことはあるか。

 1955年の都農町史にそう呼ぶとする記載があった。

日向国都農町史 - ひょうすんぼ

  

②都農を「つのう」と呼んだり聞いたりしたことはあるか

 1970年以前の資料において都農に「つのう」とるびが振られることが多い。

都農と津野① - ひょうすんぼ

 

③津野という地名を都農で見たことがあるか
 江戸中期までは明らかに都農とは別に津野という地名が存在していたが、江戸後期には消えている。

都農と津野② - ひょうすんぼ

  

④都農の夏祭りでは何故太鼓台をぶつけているのか聞いたことはないか

 例えば兵庫県にある妻鹿のお祭りでは、神功皇后が船についた牡蠣を落とすために船をぶつけたのを起源としている。

都農の祭り - ひょうすんぼ

 

 三輪さんがいらっしゃれば

⑤三輪という苗字を名乗っているわけ、あるいはどこかから移住して来たかなどという言い伝えを聞いたことはないか
 都農神社付近に異常に三輪姓が集中しており、移住してきた可能性が高い

三輪氏について - ひょうすんぼ

 

三輪姓が高密度分布を示す市町村の一覧表

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(日本苗字分布図鑑 http://myozi.web.fc2.com/autumn/zukan/frame/f000403.htm

 

廃仏毀釈についての話しは聞いたことがないか

 廃仏毀釈について町史には何も書かれていないが、宮崎県特に高鍋藩では廃仏毀釈が激しかったようである。

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

 

⑦四国の方から先祖が移住してきたという話しを聞いたことはないか

 都農のあたりは四国からの移住者が多かったようである。

四国と都農 - ひょうすんぼ

都農と津野④ 問題点

 都農の地名の由来ついて漢字と読みの両方から以前考察したが、これには問題点がある。以前考察したときから考えてはいるが結論が出ないので、とりあえず整理しておく。

 

 吐濃(トノ)→都農(トノ)→都農(ツノ)←津野(ツノ)

都農と津野① - ひょうすんぼ

都農と津野② - ひょうすんぼ

 

 そもそもこの考察の出発点は、「都農」を「ツノ」と読むということに疑問を感じたところにある。しかし用例は多くないが、「都」は「ツ」とも読む。例えば「都合」は「ツゴウ」と読む。また都農からほど近い西都市にある「都萬」神社も「ツマ」と読む。したがって出発点がおかしいのである。

 

 だが「都農」と「津野」という地名が江戸時代に併存していたことは間違いなく(詳しくは考察①参照)、地理的隣接する両者の地名を区別する必要性があると考える。そう考えると「津野」を「ツノ」と読み、「都農」をそれと区別する名で読んでいたと考えられる。

 また「吐濃」(恐らく読みは「トノ」もしくは「トノウ」)という地名が「都農」の元の名であったことを考えると、「都農」を「トノ」もしくは「トノウ」と読んでいた可能性が高いと思われる。

 

 以上のように出発点のおかしさは問題ではあるが、蓋然性の高さを根拠に「都農」の地名についての説はそのまま掲げておく。