ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

民譚

 私は民俗学に関心をもっている以上、柳田国男の「遠野物語」や宮本常一「忘れられた日本人」のような民俗説話に関心はもっている。

 今までこのブログではそういった民俗説話は扱って来なかった。説話それ自体が個人情報に該当する部分もあり、また私の文体がやや硬めで説話に仕立て難かったのがその理由である。

 しかし個人情報がわからないようにごまかしながら、伺ったお話しを説話として書いてみようと思う。試験的なものであり、後に消すかもしれません。

 

 私は人が信仰をもつきっかけに興味をもっている。たまたま強い信仰を持つ人のお話しを伺えたので、記そうと思う。

 たまたま訪れた神社で、掃除をしている人がいた。様子を見るに、神職という風でもない。そこで何故掃除をしているのか尋ねてみた。すると掃除をしているのみならず、像まで寄進しているという。そして強い信仰を持った経緯を語ってくださった。

 その人が重い病に倒れ生死の境をさまよった時、病床に白髪の老人が現れそして2匹の龍に変化したという。龍が「目を覚ませ」と言うと、意識が戻り病が回復に向かった。龍は神社の守り神に違いないと考えたそうだ。何故なら龍に変化した白髪の老人に心当たりがあったからである。

 曰く話しは50年以上前に遡る。まだ若かったころ、親の都合で結婚させられることになったそうだ。その人はあまりの不幸を嘆き、バスに乗って遠くの町まで逃げようとし、覚悟を決めてバス停に行った。バス停に着くと見慣れない白髪のおじいさんが話しかけて来て予言めいたことを言ってきたのだという。結婚相手のことや、将来の子供のことなど、どういった人生を送ることになるのかついて話しを聞くうちに、真っ黒に見えた未来が明るくなり、考えを変えて町に残り結婚することにしたそうだ。

 振り返って考えてみると、その時話しかけて来た白髪の老人は龍神様で、どうしようもなく辛い時に手を差し伸べてくれる神様ではないかと。そう思い助けてくれた神様に感謝して、毎日掃除しているののだという。

 

 

 

都農の方に聞きたいこと 改訂版その2

 以前も同様の記事を作成したのだが、半年以上経って聞きたいことも変化したので、再度改めて作ることにしました。追加した質問は⑥以降になります。

 各質問に関連した記事を質問の下にリンクしたので、興味のあるかたは覗いてみてください。

 これらの質問以外の関することでも何かありましたら、コメントしていただけると幸いです。

 

尾鈴山を「ささが丘」や「ほこの峰」と呼んだこと、あるいは呼んでいるのを聞いたことはあるか。

 1955年の都農町史にそう呼ぶとする記載があった。

日向国都農町史 - ひょうすんぼ

  

②都農を「つのう」と呼んだり聞いたりしたことはあるか

 1970年以前の資料において都農に「つのう」とるびが振られることが多い。

都農と津野① - ひょうすんぼ

 

③津野という地名を都農で見たことがあるか
 江戸中期までは明らかに都農とは別に津野という地名が存在していたが、江戸後期には消えている。

都農と津野② - ひょうすんぼ

  

④都農の夏祭りでは何故太鼓台をぶつけているのか聞いたことはないか

 例えば兵庫県にある妻鹿のお祭りでは、神功皇后が船についた牡蠣を落とすために船をぶつけたのを起源としている。

都農の祭り - ひょうすんぼ

 

 三輪さんがいらっしゃれば

⑤三輪という苗字を名乗っているわけ、あるいはどこかから移住して来たかなどという言い伝えを聞いたことはないか
 都農神社付近に異常に三輪姓が集中しており、移住してきた可能性が高い

三輪氏について - ひょうすんぼ

 

三輪姓が高密度分布を示す市町村の一覧表

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(日本苗字分布図鑑 http://myozi.web.fc2.com/autumn/zukan/frame/f000403.htm

 

廃仏毀釈についての話しは聞いたことがないか

 廃仏毀釈について町史には何も書かれていないが、宮崎県特に高鍋藩では廃仏毀釈が激しかったようである。

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

 

⑦四国の方から先祖が移住してきたという話しを聞いたことはないか

 都農のあたりは四国からの移住者が多かったようである。

四国と都農 - ひょうすんぼ

都農と津野④ 問題点

 都農の地名の由来ついて漢字と読みの両方から以前考察したが、これには問題点がある。以前考察したときから考えてはいるが結論が出ないので、とりあえず整理しておく。

 

 吐濃(トノ)→都農(トノ)→都農(ツノ)←津野(ツノ)

都農と津野① - ひょうすんぼ

都農と津野② - ひょうすんぼ

 

 そもそもこの考察の出発点は、「都農」を「ツノ」と読むということに疑問を感じたところにある。しかし用例は多くないが、「都」は「ツ」とも読む。例えば「都合」は「ツゴウ」と読む。また都農からほど近い西都市にある「都萬」神社も「ツマ」と読む。したがって出発点がおかしいのである。

 

 だが「都農」と「津野」という地名が江戸時代に併存していたことは間違いなく(詳しくは考察①参照)、地理的隣接する両者の地名を区別する必要性があると考える。そう考えると「津野」を「ツノ」と読み、「都農」をそれと区別する名で読んでいたと考えられる。

 また「吐濃」(恐らく読みは「トノ」もしくは「トノウ」)という地名が「都農」の元の名であったことを考えると、「都農」を「トノ」もしくは「トノウ」と読んでいた可能性が高いと思われる。

 

 以上のように出発点のおかしさは問題ではあるが、蓋然性の高さを根拠に「都農」の地名についての説はそのまま掲げておく。

 

都農参り

 江戸時代にたびたびお蔭参りと呼ばれる、伊勢神宮参拝が流行したことはよく知られている。同様の現象は出羽三山など有名な寺社でも発生している。

 高鍋藩という狭い範囲ではあるが、都農参りとでも呼ぶべき現象が発生していたようである。

 

1776年

近年猥に霧島代参大勢差師起に付ご停止尤も右代り都濃社尾鈴社へ勝手次第可
参被仰出

續本藩実録4

 

意訳:霧島参りが盛ん過ぎるため、停止する。そのかわりに都農神社、尾鈴神社へ好きに参ってよい

 高鍋藩では霧島参りが盛んであったようであるが、霧島は他藩であり行政上厄介が多かったのであろう。代わりに藩内にある都農神社への参詣を促したものと思われる。

 

1782年

高鍋上江持田椎木高城日置三納代虫付高鍋村同上江より都濃社へ祈祷の為参詣
仕度願出大勢は無用一村1人づつ名代差立候様被仰出

續本藩実録5

 

意訳:高鍋藩内より都農神社へ参詣願いをする際に大勢で来る必要はなく、各村一人の名代を立てればよい。

 参詣願いをするものが大勢いたということは、藩の目論見どおり、霧島参りから都農神社参りへの転換促進が多少であれ成功したものと思われる。

 大規模な参詣ではないため記録には残っていないが、恐らくは高鍋藩内で都農神社参りというものが江戸時代には行われていたのではないかと思われる。

国司巡視記

 809年に編纂されたという「国司巡視記 日向土産巻之」に都農神社についての記述があった。

 

都農社 諸県郡  祭神 大己貴命
日向一ノ宮是也 何ノ時代ニ一ノ宮ト祭ル事ヲ知ラズ

国司巡視記 日向土産巻之

 

 上記記述によれば、都農の祭神は809年には大己貴命で、すでに日向の一宮として撰定されていたことがわかる。都農の祭神、一宮としての由緒がどこにあったのかについて考える際に参考になりそうではある。

 

 しかし史料の正確性という点で疑問が残る。

 まず第一に都農社が諸県郡に所属していたという点が引っかかる。都農は当時児湯郡に所属していたはずであり、「和名類聚抄」で確認出来る。諸県郡は現在の都城市などの宮崎県の南西部にある郡である。

 第二に、都農社を一宮として断定している点が引っかかる。一宮の撰定については時期に差があるもののおおよそ11世紀から12世紀ごろに決められたと考えられている。(詳しくは以下の記事参照)したがって809年の時点で一宮として扱っているのは怪しさが残る。

何故都農神社が一宮なのか① - ひょうすんぼ

 

 以上より「国司巡視記 日向土産巻之」は、史料の正確性という点で疑問が残る。断定は出来ないが、後世の偽作ではなかろうか。

尾鈴山系

 以前いただいたコメントによって尾鈴山系という観点に気づいた。(詳しくは以下のリンク参照)

呪術信仰という観点 いただいたコメントを中心に考察 - ひょうすんぼ

 尾鈴山は尾鈴山系と呼ばれる山系の中で最も高い山である。そのため尾鈴山に対する信仰は何も都農に限られない。現に尾鈴山の裏手である東郷町出身の歌人若山牧水も「ふるさとの 尾鈴の山の かなしさよ 秋もかすみの たなびきてをり」と尾鈴山について詠んでいる。また尾鈴山系では修験者達が活発に活動していたようで、尾鈴山系の神社同士の交流は活発であったと考えられる。

 尾鈴山系は具体的に、北は日向市の耳川、南は小丸川に囲まれた山岳地帯を指す。以下のGoogle Mapsの青線で囲まれた部分が該当範囲に近い。

 

 その尾鈴山系に位置する神社のうち修験者や尾鈴山信仰と関わりがありそうな神社として、白髭神社と尾鈴神社の他に細神社、熊野神社、市那波神社、仲瀬神社があげられる。

 これらの神社について調べていきたい。

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 細神社(ほそじんじゃ)

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 熊野神社(くまのじんじゃ)都農町

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 市那波神社(いちなわじんじゃ)

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 仲瀬神社(なかせじんじゃ)

民俗学と郷土研究

 

 恐らく郷土研究を行っている人は江戸時代からいたであろうが、流行を見せたのは1930年代に入ってからである。国家主導のもと郷土愛を育み、愛国心を育てるために推し進められた。

 そういった地方の郷土史家達の研究をまとめあげたのが、民俗学者柳田国男である。「日本伝説名彙」として辞書的に各地の伝承をまとめあげ、比較することを可能とした。

 しかしこうした柳田を中心とした民俗学は柳田の死とともに衰退し、現在では柳田の系譜を継ぐものは少ない。現在の民俗学はドイツやアメリカなど外国の民俗学の影響を受けている。現在の民俗学研究の手法については島村恭則氏の「フォークロア研究とは何か」(『日本民俗学』278号、2014年)に詳しい。

 柳田の民俗学が衰退すると一方で地方の郷土史家も減少し、郷土史家達を柳田のようにまとめあげる者も存在しない。そのため各地の郷土史家が孤立しているような状況が生まれている。柳田のように再度郷土史家をまとめあげようという動きもあるようだが、いまだ模索の段階にあるようだ。またネットという新たな伝承の場(下記リンクなど)も生まれつつあり、単に柳田の「日本伝説名彙」を改編するのでは不十分である。民俗学と郷土研究の関係について再考することが求められているように思う。

爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話5