ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

国司巡視記

 809年に編纂されたという「国司巡視記 日向土産巻之」に都農神社についての記述があった。

 

都農社 諸県郡  祭神 大己貴命
日向一ノ宮是也 何ノ時代ニ一ノ宮ト祭ル事ヲ知ラズ

国司巡視記 日向土産巻之

 

 上記記述によれば、都農の祭神は809年には大己貴命で、すでに日向の一宮として撰定されていたことがわかる。都農の祭神、一宮としての由緒がどこにあったのかについて考える際に参考になりそうではある。

 

 しかし史料の正確性という点で疑問が残る。

 まず第一に都農社が諸県郡に所属していたという点が引っかかる。都農は当時児湯郡に所属していたはずであり、「和名類聚抄」で確認出来る。諸県郡は現在の都城市などの宮崎県の南西部にある郡である。

 第二に、都農社を一宮として断定している点が引っかかる。一宮の撰定については時期に差があるもののおおよそ11世紀から12世紀ごろに決められたと考えられている。(詳しくは以下の記事参照)したがって809年の時点で一宮として扱っているのは怪しさが残る。

何故都農神社が一宮なのか① - ひょうすんぼ

 

 以上より「国司巡視記 日向土産巻之」は、史料の正確性という点で疑問が残る。断定は出来ないが、後世の偽作ではなかろうか。

尾鈴山系

 以前いただいたコメントによって尾鈴山系という観点に気づいた。(詳しくは以下のリンク参照)

呪術信仰という観点 いただいたコメントを中心に考察 - ひょうすんぼ

 尾鈴山は尾鈴山系と呼ばれる山系の中で最も高い山である。そのため尾鈴山に対する信仰は何も都農に限られない。現に尾鈴山の裏手である東郷町出身の歌人若山牧水も「ふるさとの 尾鈴の山の かなしさよ 秋もかすみの たなびきてをり」と尾鈴山について詠んでいる。また尾鈴山系では修験者達が活発に活動していたようで、尾鈴山系の神社同士の交流は活発であったと考えられる。

 尾鈴山系は具体的に、北は日向市の耳川、南は小丸川に囲まれた山岳地帯を指す。以下のGoogle Mapsの青線で囲まれた部分が該当範囲に近い。

 

 その尾鈴山系に位置する神社のうち修験者や尾鈴山信仰と関わりがありそうな神社として、白髭神社と尾鈴神社の他に細神社、熊野神社、市那波神社、仲瀬神社があげられる。

 これらの神社について調べていきたい。

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 細神社(ほそじんじゃ)

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 熊野神社(くまのじんじゃ)都農町

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 市那波神社(いちなわじんじゃ)

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 仲瀬神社(なかせじんじゃ)

民俗学と郷土研究

 

 恐らく郷土研究を行っている人は江戸時代からいたであろうが、流行を見せたのは1930年代に入ってからである。国家主導のもと郷土愛を育み、愛国心を育てるために推し進められた。

 そういった地方の郷土史家達の研究をまとめあげたのが、民俗学者柳田国男である。「日本伝説名彙」として辞書的に各地の伝承をまとめあげ、比較することを可能とした。

 しかしこうした柳田を中心とした民俗学は柳田の死とともに衰退し、現在では柳田の系譜を継ぐものは少ない。現在の民俗学はドイツやアメリカなど外国の民俗学の影響を受けている。現在の民俗学研究の手法については島村恭則氏の「フォークロア研究とは何か」(『日本民俗学』278号、2014年)に詳しい。

 柳田の民俗学が衰退すると一方で地方の郷土史家も減少し、郷土史家達を柳田のようにまとめあげる者も存在しない。そのため各地の郷土史家が孤立しているような状況が生まれている。柳田のように再度郷土史家をまとめあげようという動きもあるようだが、いまだ模索の段階にあるようだ。またネットという新たな伝承の場(下記リンクなど)も生まれつつあり、単に柳田の「日本伝説名彙」を改編するのでは不十分である。民俗学と郷土研究の関係について再考することが求められているように思う。

爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話5

 

都農の歴史を調べるにあたっての課題

 今まで度々触れてきたと思うが、都農の歴史を調べるにあたって大きな壁が存在する。それらについて整理したい。

 

1、大友宗麟による焼き討ち(1578年)

 島津氏に日向を追われた伊東氏を助けるべく日向に入った大友宗麟は狂信的なキリスト教信者であり、侵攻地の寺社を焼き払った。

 都農もその例外ではなく、都農神社が焼き討ちにあっている。恐らく都農神社以外の大小の神社も焼き討ちにあっていただろう。焼き討ちは徹底的に行われたようで、都農神社は1617年に秋月氏の援助で再建されるまでどこにあるかもわからない状態であったという。

 この焼き討ちのため1578年以前の史料が失われてしまっている。したがってこれ以前の情報は木城以南の焼き討ちにあっていない地域などの情報を参考にするしかない。

 

2、廃仏毀釈(1868~1874年?)

 都農で廃仏毀釈があったという直接的な記述は見ていない。しかし宮崎県は全国的に見て廃仏毀釈が激しかったようで、廃仏毀釈の激しかった藩としてよく都農の所属していた高鍋藩があげられている。高鍋藩主の秋月氏菩提寺ですら破壊され、消失している。

 また都農町の隣にある川南町では廃仏毀釈のあとが明確に残っており、耳川の戦い戦没者を慰霊するために建てられた宗麟原供養塔の地蔵が破壊されている。(大正時代に修復)

川南町 | 児湯郡 | 宮崎県 | 国指定史跡 宗麟原供養塔 | 川南町観光協会

 こういった事実から都農でも廃仏毀釈は激しかったことが想定される。江戸時代の記録と照らし合わせる限り消失した寺院もいくつかあると思われる。慰霊のために建てられた地蔵でさえ破壊し、谷に投げ捨てられたのだから、文書も破棄されただろう。また神社内部でも神仏習合の痕跡が消されたであろう。

 そのため明治以前の文字情報が少なくなってしまっている。

 

 

呪術信仰という観点 いただいたコメントを中心に考察

 いろはすさんから尾鈴山についての記事にコメントをいただいたのですが、興味深い内容であったため個別の返信に加えて記事として取り上げたい。

 コメントは大歓迎ですので、すこしでも何かコメントしたいことがあればコメントしていただけると幸いです。

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

 

なるほど。おもしろい考え方ですね〜。
古代史の見方はいろいろだと思うけど、興味深いものの一つに、932年の平安時代編集されたらしい倭名云々(省略すみません)という古書に、郷名に解読不明の文字があったそうなのですが、現存する最古の高山寺本によると、『物部』と明記されてあったのだそうです。そうすると、尾鈴山と物部郷は隣接していることになり、児湯郡において古代物部氏たちの動きが想像されます。まあなんとも言えない話ではありますが、都農神社の祀神もスサノオとか、大国主とか、饒速日とか一定しない記述もちらほらあったそうだし、白髭神社に浦島太郎が来た伝承と牛頭天王の配置から見ても、丹波の火明命、古代海部系の天孫系神を、のちの物部氏系や霊術系の信仰で封じ込めていったために、饒速日の存在や大国主の存在が必要になったのかもしれません。真相はそうした点でも藪の中ですが、興味深い先祖たちの動向は時代時代で途絶えながらも途中でリバイバルしたり、紆余曲折してあったのかもしれませんね。考え出すと想像が膨らみます

 

 和名云々は「和名類聚抄」のことだと思われる。

 現在の佐土原付近を指していた「那珂」の異表記として「物部」が「和名類聚抄」には挙げられている。佐土原は尾鈴山とは隣接していないため、他の郷の可能性もある。

 実際に都農神社の祭神について表記の揺れがあるのは確かである。しかしもとは土着の神を祭っていたと思われる。

 物部氏は謎の多い氏族で、全国各地に物部郷があり、畿内のみならず地方にもある程度の勢力を持っていたと思われるが、詳しいことは不明である。

神社史料集成・都農神社

 

 白髭神社との関連性はもっともであり、私が見落としていた視点である。白髭神社修験道の拠点となっており、尾鈴山と同一の山系であることから修験者を通じて都農神社、尾鈴神社と白髭神社は相当の交流があったものと考えられる。

 ただし白髭神社も都農神社と同じく大友宗麟の焼き討ちや廃仏毀釈の影響を受けた可能性が高く、文献資料の保存状況には期待出来ない。なおこのことについては次回詳しく記事にする。

 

 また都農にも浦島太郎伝説は残っている。要約すると以下のようになる。

 乙姫様にあたる方が「津野姫」という名で、都農と縁が深かった。そのため浦島太郎は玉手箱をもらって帰ってくる時に明田の浜に上陸したという。

 浦島太郎伝説には多様な形があるが、丹波国風土記が日本の浦島太郎伝説の原型と言われている。しかし浦島太郎伝説と似たような話は中国やポリネシアなど世界各地にあり、起源は日本にはないと思われる。柳田国男の言うところの世界民俗学にも繋がる話しではあるが、今回は深くは触れない。

 

 私に抜け落ちていたのはご指摘いただいた霊術・呪術的な視点で、何らかの呪術的な価値が都農にあった可能性も否定出来ない。呪術的な価値から都農神社が一宮になった事実や、三輪氏が都農に移住してきた理由も説明出来るかもしれない。

 しかし文献資料が著しく乏しいため真相は藪の中であり、はっきりとこれだと断定出来ないかもしれない。ただわからないからこそ考察していく意義があり楽しいのだと思う。

 

※和名類聚抄

 平安中期の漢和辞書。10巻本と20巻本とがある。源順(みなもとのしたごう)著。承平4年(934)ごろ成立。漢語を意義分類し、出典を記して意味と解説を付し、字音と和訓を示す。

デジタル大辞泉

 以下のリンクで読むことが出来る。

国立国会図書館デジタルコレクション - 和名類聚抄 20巻

 

白髭神社

 川南の神社。詳しくは以下の記事を参照してください。

川南の諸神社 - ひょうすんぼ

都農の地形

 最近ブラタモリなどに代表されるように地形ブームが到来している。(?)私も地形は好きで、城や古墳の建つような見晴らしの良い台地が好きである。今回は都農町の地形について触れたい。

 都農町の東部は宮崎平野の北端を占める。しかし平野部は狭く町の6割以上が山地となっており、平野といっても隆起によって洪積台地(平野が隆起した台地)となっている。そのため海岸からすぐは急な勾配となっている。(日豊本線のあたりまで)

 都農町の中心部を形成する平野は都農川、心見川、名貫川の三本の川によって形成された扇状地の上に、霧島や姶良の火山灰が積もって生み出された。

 表層を覆う火山灰は黒ボク土と呼ばれるもので、黒くて保水力が高く、柔らかく耕しやすい。しかしリン酸を欠乏しやすいという欠点を持っているため、植物の栽培には不向きな部分もある。そのためか江戸時代の都農の主要作物は芋であった。

 一方で西部の山間部は九州山地の東部に位置しており、尾鈴山(1450m)に代表されるように山が連なっている。これらの山々は耳川の河口付近を火口としていた巨大な火山の噴石によって形成されており、大半が火成岩である。

 上空からの写真を見ると、都農町が三角形の宮崎平野の突端にあたることがよくわかる。

Google マップ

都農の太鼓台

 都農の夏祭りといえば太鼓台であるが、その太鼓台の由来についてはわからないことが多い。

www.youtube.com

都農の祭り - ひょうすんぼ

 

 各保存会では江戸末期ないし明治期に瀬戸内や上方から移入したことを言い伝えている。香川県大原野町や豊浜町ではチョウサ祭りといい、太鼓台を担いで町内を練り歩くとき「チョーサ、チョーサ」と叫ぶ(『長浜曳山祭総合調査報告書』滋賀県長浜市教育委員会・平成8年)が、宮崎県内の太鼓台伝承地の一部に、掛け声に「チョーサイ、チョーサイ」(西都市)とか「チョーサイナ、チョーサイナ」(都農町・日向市)と言うところがあり、瀬戸内や上方から伝播したと伝承していることを裏付けている。また太鼓台の形状からも三層から五層の布団屋根をしていること、台は曳かず担ぐことから車輪はないことなどからも伝承の信憑性を裏付ける。

宮崎みんなのポータルサイト miten 宮崎の情報満載 - mitenコラム

 

 上記コラムによれば、掛け声や伝承から考えるに祭りは香川などの瀬戸内・上方由来だという。とすれば兵庫の妻鹿祭りと同じ由来であるとした以前の考察はあながち間違いでないのかもしれない。