ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農の地形

 最近ブラタモリなどに代表されるように地形ブームが到来している。(?)私も地形は好きで、城や古墳の建つような見晴らしの良い台地が好きである。今回は都農町の地形について触れたい。

 都農町の東部は宮崎平野の北端を占める。しかし平野部は狭く町の6割以上が山地となっており、平野といっても隆起によって洪積台地(平野が隆起した台地)となっている。そのため海岸からすぐは急な勾配となっている。(日豊本線のあたりまで)

 都農町の中心部を形成する平野は都農川、心見川、名貫川の三本の川によって形成された扇状地の上に、霧島や姶良の火山灰が積もって生み出された。

 表層を覆う火山灰は黒ボク土と呼ばれるもので、黒くて保水力が高く、柔らかく耕しやすい。しかしリン酸を欠乏しやすいという欠点を持っているため、植物の栽培には不向きな部分もある。そのためか江戸時代の都農の主要作物は芋であった。

 一方で西部の山間部は九州山地の東部に位置しており、尾鈴山(1450m)に代表されるように山が連なっている。これらの山々は耳川の河口付近を火口としていた巨大な火山の噴石によって形成されており、大半が火成岩である。

 上空からの写真を見ると、都農町が三角形の宮崎平野の突端にあたることがよくわかる。

Google マップ

都農の太鼓台

 都農の夏祭りといえば太鼓台であるが、その太鼓台の由来についてはわからないことが多い。

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都農の祭り - ひょうすんぼ

 

 各保存会では江戸末期ないし明治期に瀬戸内や上方から移入したことを言い伝えている。香川県大原野町や豊浜町ではチョウサ祭りといい、太鼓台を担いで町内を練り歩くとき「チョーサ、チョーサ」と叫ぶ(『長浜曳山祭総合調査報告書』滋賀県長浜市教育委員会・平成8年)が、宮崎県内の太鼓台伝承地の一部に、掛け声に「チョーサイ、チョーサイ」(西都市)とか「チョーサイナ、チョーサイナ」(都農町・日向市)と言うところがあり、瀬戸内や上方から伝播したと伝承していることを裏付けている。また太鼓台の形状からも三層から五層の布団屋根をしていること、台は曳かず担ぐことから車輪はないことなどからも伝承の信憑性を裏付ける。

宮崎みんなのポータルサイト miten 宮崎の情報満載 - mitenコラム

 

 上記コラムによれば、掛け声や伝承から考えるに祭りは香川などの瀬戸内・上方由来だという。とすれば兵庫の妻鹿祭りと同じ由来であるとした以前の考察はあながち間違いでないのかもしれない。

西都原考古博物館 特別展、鹿野田神社

 西都原考古博物館の特別展「豊と日向 日出る国の考古学」(18日まで)に行ってきた。

 西都原考古博物館は豊日文化圏というものを想定しているようで、今回の展示はそれに則って行われたものだと思われる。豊日文化圏とは現在の大分県と宮崎県が古代においては同一の文化圏に属していたという考え方で、あまりメジャーな考え方ではない。詳しい内容については「古代日向の国」(西都原古墳研究所所長 日高正晴、1993年、NHK BOOKS)を参照してください。

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 特別展の内容は日向の国で出土した物を豊後の国で出土した物を横に並べて、縄文時代から戦国時代まで展示したものである。

 解説があまり詳しくなく、展示している時代の範囲が広いため統一的にどのような考え方を示したいのかわからないのが残念である。事前に豊日文化圏という考え方を知らなければ意図がわかりづらいであろう。通常展がメッセージ性が強く、考え方がわかりやすいのに残念である。

 

 同じく西都市にある鹿野田神社を訪れた。かなり内陸にあるにもかかわらず、井戸から潮水が出るという。飲泉用の井戸水を飲んでみたが、ほぼ海水と同じ味でかなり塩辛かった。面白い神社である。

鹿野田神社(かのだ神社)|宮崎県西都市

 

高鍋城(舞鶴城)

 高鍋城は高鍋町の中心部である平野に突出した台地の上に立っている。

 高鍋藩を治めた秋月氏の居城であるが、もともとは平安時代末期に日向国一帯で権勢を誇った土持氏の居城であり、その後伊東氏、島津氏の所有を経ている。

 高鍋の地はもともとは財部と呼ばれていたが、秀吉によって高鍋に改められたという。(おそらく当て字)

 高鍋城は舞鶴城と呼ばれており、看板でも舞鶴城と呼称されているが、舞鶴の由来は上空から見た時に舞鶴の形に似ているからだそうだが、舞鶴城という城名は全国各地にあり流行っていたのだろう。

 あまり遺構は残っていないが、曲輪や土塁、石垣が多少残っている。木が生い茂っており、眺望はあまりよくないが、木がなければ高鍋町一帯を眺めることが出来たであろう。

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 城下にある資料館では高鍋町の歴史がわかりやすく展示されている。中でも見どころは高鍋町近辺のジオラマで、高城の地理的重要性と耳川の戦い、根白坂の戦いがどのように展開したのかが見て取れる。

 

 

尾鈴神社

 尾鈴神社に行ってきた。

 尾鈴神社は木戸平あたりから東九州道をくぐってすぐの山の上にある。(恐らく荒崎山)ふもとから車で約40分だが、道が狭い箇所や岩が落ちている箇所が多々あり、道から落ちる車が何台もいるということなので、訪れるのはあまりおすすめしません。

 

 尾鈴神社は山の中にある割には社殿も立派で、整備も行き届いている。今ではあまり訪れる人もいないが、戦前は多くの人が訪れていたという。

 尾鈴山を祭った神社で、尾鈴山の山頂まで登るのは困難であるため手前の山であるこの地に舞殿として社殿が造られた。舞殿であるため以前は神楽が奉納されていたのであろうが、今は行われていない。

 社殿の真裏に尾鈴山が位置するようになっているとは思うが、木が茂っていたため確認することは出来なかった。

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 尾鈴神社にあった石碑によれば、明治初年に火事がありその際に資料をほとんど喪失してしまったという。

 明治初年に火事があったということに多少違和感を感じなくもないが、以前考察した尾鈴神社の祭神変更には大きな影響を与えたと思われる。

尾鈴山について 再考⑤-1 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

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生目

 宮崎市の市街地からほど近くにある生目地区を訪れた。

 

①生目神社

 生目という名から明らかなように眼病にご利益があるとされている。平日に訪れたのだが、参拝客が他に幾人かおり、信仰を集めていることが伺えた。

 宇佐神宮の荘園管理のため八幡神勧進したのが始まりとされるが、明治に入るころに八幡神は祭神ではなくなっている。生目の由来については藤原景清の眼を祭ったという説や眼病のご利益があるからなどいくつかの説があるようである。

生目神社

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②生目古墳

 訪れた際には近くの生目の杜運動公園ソフトバンクホークスがキャンプを行っており、その臨時駐車場ともなっていた。

 古墳は西都原古墳群と同じく台地の上にある。その麓には遊古館という博物館兼体験スペースがあり、勾玉づくりなどが出来るようになっていた。

 西都原古墳群とは異なり古墳の上に登れることが目玉となっている。しかし九州最大の前方後円墳である3号墳には登ることが出来ても、雑木林のようになっているため、なかなか全容がつかみにくい。ただ3号墳からみた7号墳ははっきり前方後円の形が視認出来た。また5号墳は当時を再現して石を瓦のようにして墳丘を覆っており見応えがあった。

生目古墳群史跡公園 - 宮崎市

 

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都農神社と熊野

 尾鈴山は古来から修験者の修行の地となっており、都農神社は修験者の拠点となっていた。

 

 寛正二年(一四六一)二月二五日の旦那売券(熊野那智大社文書)には日向菊池氏の一族が重代相伝してきた先達職の内容に、臼杵の「つのゝミや」などがみえ、当社は所属する臼杵郡とともに菊池氏の影響下にあった。天文年間(一五三二―五五)の神事日記(新名爪八幡宮文書)によれば、天文四年一〇月二九日、日向一宮での奇瑞に対して新名爪八幡宮(現宮崎市)の祭礼で神楽が奉納されている。当社は紀州熊野社の御師の拠点である

 日本歴史地名体系

 

 孫引きで申し訳ないのですが、都農神社が熊野の影響下にあったことが伺えます。現在の都農神社の境内に末社として熊野神社があるのはこれに由来するのでしょう。廃仏毀釈と同時に出された修験禁止令、あるいは大友宗麟の焼き討ちにより都農神社の衰微によって熊野との関係は終わったと思われます。

 なお旦那売券とは檀那売券のことで、檀家関係の売買のようなものを意味します。日向菊池氏は南北朝期に活躍した肥後の菊地氏の分家でしょうか。先達職とは山伏や修行者が山に入る際に先導する者のことを言います。