ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

何故都農神社が一宮なのか①

 都農神社が一宮であることは一つ大きな問題である。

 都農の属する日向国では古代から近世まで現在の西都市妻のあたりを中心に栄えていた。西都原古墳群の規模は全国有数であり、都農の古墳群は比較にならない。国府国分寺なども妻におかれ、戦国時代日向を支配した伊東氏も妻からほど近い丘にある都於郡城を本拠とした。しかし妻にある都萬神社が二宮で、都農にある都農神社が一宮なのである。

 

 まず一宮の存在とその選定理由について確認したい。

 日本大百科全書 一宮の項

 古代末期に定められた神社社格の一つ。その選定時期、選定理由などについてはまだ明らかでないが、12世紀前半に成った『今昔物語』に周防国山口県)一宮玉祖大明神とみえるのが文献上の初見で、康和5年(1103)の伯耆国鳥取県倭文神社境内より出土の経筒にも一宮の字があり、およそそのころから称されたものとみられる。それも神祇官国司などによって公式に定められたものでなく、民間で唱えられ始めたものとみられている。その選定理由については近世以来諸説がある。諸国でもっとも位階の高い神社とも、また神祇官より諸国神社に伝達する際、便宜上、国ごとに一社を定めておき、そこを通じて布達させたその社の名残ともいう。あるいは国司着任の際いちばん初めに参拝した社のこと、あるいは国内でいちばん社領の寄せられていた社のことなどともいう。しかし、いずれも従いがたく、結局その国でもっとも由緒正しく、多くの信仰を集め、経済的基盤も優れていた社ということができよう。また、それも同時に全国的に生じたのではなく、古代末期から中世初頭にかけて逐次国ごとに称されたものとみられ、さらにそのころ二宮、三宮の呼称も生じた。のちに、国ごとでなく、郡内の、また、国内一地方の一宮、二宮以下を定めた例もあり、諸国の一宮も、時代の推移とともに変遷交替している場合もある。なかには伊勢国三重県)、甲斐国山梨県)、肥前国佐賀県長崎県)などのように、近世以来一宮争いをしている国もある。

 

 また他に11、12世紀以降下向しなくなった国史に代わって政務の中心となった在庁官人の神社祭祀形態として成立したという説もある。

 水谷類「国司神拝の歴史的意義」(『日本歴史』四二七号、一九八三年)

 

 都農町史では以下のような記述となっている。

 その背景を積極的に示す歴史的資料はないが、神徳の面で疫病、特にほうそうを患う者に対し、神験のある旨の伝えがあったことも一考に値するであろう。また、北の豊後から日向国に入る官道に沿い、四式内社中最も期待に位置すること、他国から船で日向国に入る場合、細島、美々津に着くが、そこから官道を少し南下した所に位置することなどの地理的条件が主因と考えられよう。 

 都農町史、1998年

 

 

 長くなったので、②へと続く

都農と似た地名

 島根県江津市に都農郷とよばれた郷があったという。完全に都農町と同じ漢字と読みである。
 現在でも地名は残っており、都野津駅という駅が山陰本線にはある。2年ほど前に通ったことはあるが、爆睡していたので覚えていない。
 都農との交流は確認出来なかった。

Google マップ

 

 高知県には津野町という自治体がある。津野という地名は以前都農にも存在した。

都農と津野② - ひょうすんぼ

 こちらも同様に都農との交流は確認出来なかった。しかし以前記事に書いたように都農には四国とりわけ高知や愛媛からの移住者が多いと思われるので、もしかしたらこの津野町から都農町に移住してきた人がいるかもしれない。

四国と都農 - ひょうすんぼ

  交流はなくても、同じ町名だからか町のPRの仕方は似ている。

だっつーの(都農町長編) - YouTube

津野だ!つーの! - 津野町観光ネット | 高知県

 

大己貴命と大国主命

 都農神社の祭神は大己貴命(別名 大国主命)ということになっている。

日向国一之宮都農神社公式ホームページ

 

 大己貴命大国主命を単純に同じ神として考えてよいのかという問題がある。古事記には大国主命の一名として大己貴命があげられていることを根拠とすることが多いが、名前が異なるというところにスッキリしないものを感じていた。しっくりくる解釈に出会ったので紹介したい。

 

 世界としては、イザナギイザナミが作りおえたわけで、オオナムチが国作りをになうことがないものとして、第八段は形づくられる。だから、オオナムチは、降臨の場面でもオオクニヌシと呼ばれることがない。「古事記」では、オオナムチは、「大国主」と呼び直された。兄弟たちを追い、地上全体を支配する神となって、国作りを完成する存在だから、そう呼ばれるのであった。いいかえれば、オオクニヌシは、「古事記」の世界の物語のなかではじめて存在したのであった。

 古事記日本書紀 (講談社現代新書) 新書 – 1999/1/20 神野志 隆光

 

 日本書紀古事記は全く別の神話だという説が議論の前提としてある。日本書紀には中国の陰陽論が思想的背景として流れていれ、古事記にはムスヒという思想が背景として流れていると神野志は考えている。

 そもそも記紀神話という形で日本書紀古事記をセットにする考え方自体が新しいもので、明治以降に作られたものである。現在も記紀をセットにする考え方は一般的だとは思うが、神野志隆光以降は学説上は区別する考え方が通説となっている。(そういう話しを聞いたので本当かどうか定かではない)

 大国主大己貴命の呼称の違いも、記紀が別の思想を背景としているものとして考えればしっくりくる。

 

https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%A5%9E%E9%87%8E%E5%BF%97-%E9%9A%86%E5%85%89/dp/4061494368/ref=la_B001I7B9WM_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1515078360&sr=1-1

四国と都農

 都農を含む児湯郡には四国とりわけ高知や愛媛からの移住者が多いように思われる。ここでいう移住者は近年の話ではなく、江戸時代以前の話である。

 柳田国男も椎葉に向かうためこの地を通った際に以下のように述べている。

 宮崎もまた純然たる新開地の町でありまして、土語方言というものだなく、諸国語の混合であります。この土地で最も勢力のあるのは、伊予の宇和地方の者であります。高鍋の北なる河南村の高原、美々津、細島地方より、西臼杵郡高千穂地方、すなわち三田井附近にも移住者がはなはだ多く、新開地の状態を呈して居るのであります。

(「柳田國男全集5巻、『九州南部地方の民風』」,柳田国男,筑摩書房,1989年)

「九州南部地方の民風」について - ひょうすんぼ

 

 また宮崎弁は豊日方言に分類され、大分県や福岡県東部の方言と近い構造になっている。豊日方言は九州の他の地域の方言と比較して本州や四国に近いものとなっている。これは豊日地域と本州や四国との交流が盛んなことの証左であろう。

 

 まだ資料不足でほとんど何もわかっていないのだが、これから調べていきたい。

PR動画

 都農のPRをする動画が公開されている。

宮崎県「つの町」(都農町PV) - YouTube

 

 近年の動画サイトの躍進や国からの交付金の兼ね合いもあってこういったPR動画を公開する自治体が増えている。

 率直に述べるならば都農のPR動画は良くもなければ悪くもない。魅力を伝えてはいるし、まとまってはいる。だが記憶に残るようなインパクトはない。公開から一年以上経っても再生回数は3000回にも満たない。

 

 同じ宮崎県内の小林市の動画は、市のPRをしながら、ある仕掛けによって見た人が誰かに話したくなるようになっている。(ネタバレになるので中身は言えない)

www.youtube.com

 実際に再生回数も230万回と都農の1000倍で、多くのネットメディアに取り上げられている。

思わず2度見る!話題の小林市PR動画 衝撃のオチ、まんまとハマる - withnews(ウィズニュース)

 

 また都農の隣に位置する日向市の動画はストーリー仕立てのPRによって印象に残るようになっており、再生回数も80万回に達している。

www.youtube.com

 

 両市とも独自に動画を作ったわけではないであろうし、動画製作者や広告代理店の手腕によるところも大きいであろうが、こういうPR動画によっていわゆるバズることを狙ってみてもよいのではないのかと思う。

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈

 尾鈴山は修験道の地としても知られていたようで、尾鈴山一帯には修験者が多くいたと言われている。尾鈴神社の信仰も修験者の影響を受けていてもおかしくはなく、実際貞享寺社帳によれば津野権現と呼ばれていたこともあるようである。また素盞嗚命牛頭天王の本地であり、仏教との関わりも深い。尾鈴神社は江戸時代にはかなり仏教の影響を受けた神社であったと思われる。

  そういった状況で廃仏毀釈を迎えた尾鈴神社は、嵐のような廃仏毀釈を前にして仏教との関わりを捨てざるを得なかったのではないか。そしてその際に仏教との関わりを示す素盞嗚命を祭神から降ろし、饒速日命を祭神に据えたのであろう。

 「神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈 」(岩波新書,1979年,安丸 良夫)によれば、宮崎県の廃仏毀釈は全国でもトップクラスに激しく、廃合寺された寺の割合は9割を越える。廃仏毀釈が激しかった藩の一つとして高鍋藩も挙げられていた。高鍋藩に所属していた都農町も例外ではないであろう。

 

 1955年に発行された古い都農町史には興味深い記述がある。

 明治十五年の尾鈴神社由緒事項調書に「尾鈴山は年代によって名が変つており、最も古い書によると。日向○○「二字不明」、早日の峰は、櫛玉饒速日命を祭るとあります」。尾鈴山の古い名が、早日の峰、「速日の峰」であると言うことを考えても、その最もであることが推察されるでしょう。

 「日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年

 

 廃仏毀釈は1872~74年ごろがピークであり、この尾鈴神社由緒書調書は廃仏毀釈の10年後頃に書かれたものだと思われる。少なくとも江戸末期の尾鈴神社の祭神が素盞嗚命であったにもかかわらず、それから50年もしないうちに白々しく尾鈴山は饒速日命を祭る山などと書いているのは違和感を覚える。おそらくは祭神を変えたことを正当化するため詭弁であろう。

 祭神を素盞嗚命から饒速日命へと変えるのはどういう形であれ、気が進まないであろうし、それなりの正当化の論理は必要である。そのための論理として存在の怪しい「最も古い書」などと言うものを用いて、あたかも本来の祭神は饒速日命であったかのように述べているのではないかと考えられる。

 饒速日命という祭神自体は以前述べたように修験道を通じて延岡の早日渡あたりから入ってきたものであろう。

hyousunbo.hatenablog.jp

 

 

尾鈴山について 再考⑤-1 尾鈴神社と廃仏毀釈

 尾鈴山の祭神については再考を書いたばかりである。それから一ヶ月もしないうちに追加で色々述べるのは少し気が引けるが、また尾鈴山の祭神について考えたい。

尾鈴山について 再考③尾鈴山と饒速日命 - ひょうすんぼ

 

 1952年に開始された宗教法人の登記によれば尾鈴神社の祭神は饒速日命となっている。合祀された神としては素盞嗚命菅原道真が挙げられている。現在まで祭神についての変化はない。

 

 ところが江戸時代の祭神は饒速日命ではなかったようである。

 貞享寺社帳(1687年)「津野権現 本地正観音」※

 天保寺社帳(1830~44年)「尾鈴大明神神体素盞嗚命

 ※権現

 仏・菩薩が衆生を救うために、日本の神に姿をかえて、この世に現れること。また、その現れた神。本地垂迹の説から出たもので、熊野三所権現山王権現春日権現などの類。(例文 仏教語大辞典)

 この場合においては津野権現は観音様の仮のお姿という意味

 

 都農権現や尾鈴大明神といった地域の守り神を祭っていることはともかくとして、饒速日命ではなく素盞嗚命と明記されていることが注目される。

 1800年代中頃から1952年までのどこかで祭神の変化が起きたと思われる。どの期に変化が起きたかは不明であるが、おそらく明治維新後の廃仏毀釈の際に祭神の変化が起きたと思われる。

 

尾鈴神社を訪れました。

尾鈴神社 - ひょうすんぼ