ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

三輪氏について

 三輪姓を持つ人が都農町に多く住んでおり、江戸時代末期や明治初期の資料を見るか限り、それなりに力をもった家であることも伺える。

 その密度は全国でも5位以内に入るほどであり、県内に他に密集地がないことから何らかの要因があると考えられる。

三輪姓が高密度分布を示す市町村の一覧表

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(日本苗字分布図鑑 http://myozi.web.fc2.com/autumn/zukan/frame/f000403.htm

 考えられるものとしては、改姓と移住があるが、私は移住してきたと考えている。

 三輪氏は大和の一宮である大神神社でも有名であり、日本書紀古事記にもその名が出てくる古代ヤマトの有力な一族である。

 大神神社の祭神は都農神社と同じ大己貴命であり、関連性がうかがえる。移住と同時に信仰も持ってきたのであろう。

 

 そのような有力な一族が何故移住してきたのかについて考えていきたい。

 ここで重要となってくるのは移住した時期である。

 三輪氏がもっとも力を持っていた5~6世紀ごろであれば、対隼人の前線を抑えるという意味合いや、馬の産地としての軍事的重要性から三輪氏が移住してきたと思われる。このときの三輪氏の移住により都農神社の祭神が大己貴命となったのならば、後に都農神社が日向の国の一宮になったのもうなずける。

 上記のような軍事的な意味での移住であれば、同時に軍事を司っていた物部系の氏族が移住してきた可能性もある。これが尾鈴山の祭神が饒速日命となったきっかけとなっているかもしれない。

 隼人の前線が南下し、また三輪氏の力も徐々に衰えていく奈良・平安時代に移住してきたのであれば、単に馬の産地としての重要性からであろう。

 それ以降の三輪氏の力が弱まって以降の移住は政治的な意味はあまり持たず、単に土地を求めただけであろう。

 

 なお「古代日向の国」(日高正晴、1993年、NHK BOOKS)によれば、都農神社には、古くから「祝」の家柄として三輪氏が仕えていたという。ただし原典は不明であり、16世紀後半の都農神社の神官は金丸氏であったことは文字資料によって確認されている。

 また日高氏は同著において、三輪山説話(大蛇の子を産む話)と祖母岳に伝わる説話との類似性を指摘し、それが朝鮮半島最北端がルーツだとする。伝承の比較から、三輪山説話は九州に伝わったのが先で、ヤマトにはそのあと伝わったのではないかという説を提唱している。

 この説によれば三輪氏の本拠地は九州となり、ヤマトからではなく祖母岳から都農あたりに移住した可能性も出てくるが、肝心の比較の部分が説得力を欠いているため有力な説とは言えないだろう。

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尾鈴山について 再考④ 尾鈴山の呼称

 4回に渡って続いた尾鈴山再考も今回で終わりにします。

 

 尾鈴山は今でこそ尾鈴山の呼称で統一されているが、以前は違ったようである。

 再考①で登場した吐濃峯もそうであるが、他にもいくつかの呼称がある。

  昔から今までに尾鈴山を、速日の峰と呼んでおるのを他の本には見ることが出来ないけれども、その主峰を、ささが丘、またはほこの峰と言うことは、今でも村人たちは伝え言つて

おるのであります。

 日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年

 

 速日の峰は尾鈴神社の祭神饒速日命が由来であろう。ほこの峰は恐らく何かしらの神話か伝承が由来だと思われる。ささが丘については不明。

 

 「新編・九州の山と高原」(折元秀穂,西日本新聞社,1985年)によれば、中世において尾鈴山は新納(にいろ)山と呼ばれていたようである。

 新納の由来は新納院から来ていると思われる。新納院とは荘園のことで、現在の都農・川南・木城・高鍋・新富がそれに該当する。後に東郷なども加わった。新納院の代表的な山と言うことで新納山となったのだろう。

 

 尾鈴山と呼ばれるようになったのはいつからであろうか。江戸期に入ってからは尾鈴山の呼称で統一されている。秀吉の太閤検地による荘園の消滅により、新納院がなくなったことが、新納山と呼ばなくなる一つのきっかけにはなったと思うが、呼称が移行した正確な時期は不明。

 

 尾鈴山の呼称の由来として広く知らているのは以下の伝承である。細部が異なる伝承はあるが、大まかな構成に差は見られない。

 あるとき、雪のように白い馬が1頭交じっていた。この馬は捕らえられず、山中深く分け入って神様の馬となった。山の神は白馬に乗って都農の村里や浜辺の上を駆けた。神が大空を駆けるとき、明月のようにはっきり仰ぎ眺められたという。
 馬がいななけば鈴がシャンシャンと鳴り、鈴が鳴れば馬がいなないて鈴の音が遠くの村里まで響き渡った。馬の首には黄金色の鈴が輝いていた。このように山上はるか鈴の音が響くことから、この神様を「御鈴様」、または「尾鈴様」、その山を「御鈴山」、後に「尾鈴山」と呼ぶようになったと伝えられる。

みやざきの神話と伝承101:矢研の滝と尾鈴山

 実際にこのような出来事があったとは思えない。しかし都農には馬牧があり、それが何かしら由来になっているのであろう。

尾鈴山について 再考③尾鈴山と饒速日命

 再考①で尾鈴山で祭られている神と都農神社で祭られている神は同一だと記したが、この説には大きな欠陥がある。都農神社の祭神は大己貴命であるが、尾鈴山を祭る尾鈴神社、細神社は共に饒速日命を祭神としているのである。再考③では何故尾鈴山で饒速日命が祭られているのかについて考えていきたい。

 

 まず饒速日命について説明する。饒速日命神武天皇より天から降り、ヤマトの地にいたとされている。神武天皇の東征に対して抵抗して撃退さえもした長髄彦を殺害し、神武天皇に降った神である。物部氏の祖先ともされている。

 そもそもこの饒速日命というのがよくわからないので、巷には饒速日命関連の考察や本が多く出回っている。その中には饒速日命大己貴命を同一視するものもあり、その説によれば尾鈴山と都農神社の祭神が実質同じとなるのだが、あまり支持を受けていない説のようなので、別の神として考える。

 興味のある方は「古代日本正史―記紀以前の資料による」(原田 常治)を参照してください。(何故かリンクが貼れませんでした。)

 

 以下で関連資料を検討していく。

 考えますとき、饒速日命を尾鈴神社の祭神としたのは、日向国風土記日向国」にあって、

 「この山のある所を、速日の峰と言う。昔、大神の御瓊々杵命の兄の饒速日命がこの山の峰に御降臨されたので、速日という」。

また、都農郷「神あり。都農社と号す、饒速日命を祭る所也」。

 以上のような説によるものでありますが、なお、明治十五年の尾鈴神社由緒事項調書に「尾鈴山は年代によって名が変つており、最も古い書によると。日向○○「二字不明」、早日の峰は、櫛玉饒速日命を祭るとあります」。尾鈴山の古い名が、早日の峰、「速日の峰」であると言うことを考えても、その最もであることが推察されるでしょう。

(「日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年)

 

 都農社は恐らく都農神社のことだろう。日向国風土記の記述が正しいのであれば、古代の都農神社では饒速日命を祀っていたということになる。しかし日向国風土記逸文には、その記述を確認することが出来ず。ここでいう風土記とは何なのか疑問が持たれる。

 ただし明治十五年の尾鈴神社由緒事項調書は興味深い。※江戸時代の祭神はスサノオでした。

 速日の峰については聞いたことが無く、他の資料でも速日の峰という呼称は見かけていが、そう呼ばれていた可能性も否定しきれない。

 

 文字資料からは理由がわからないので、他の部分から考える。 

 神社の信仰の起源としてよくあるパターンが移住者や移動する者の影響を受けたものである。

 下記のリンクを見ると宮崎県内で饒速日命を祭る神社は山間部に多い。以前紹介した早日渡神社もそうである。山間部を行き来する修験者によって信仰が持ち込まれたのではないか。

物部氏ゆかりの神社-西日本 http://kamnavi.jp/mn/monomapnisi.htm

 残酷過ぎて伝承としては明らかに異質な白鳥伝説も同時に伝えられたのであろう。

 安康天皇が即位後三年に、品鳥忌寸に命じて日向国都農神山(尾鈴山)に狩をさせ、白鳥を得た。その鳥には翼があったが、その場にいた従者たちは血を吐いて死亡するものが、万を数えるほどであった。そのことがあって、ついに、その年の8月9日に安康天皇は眉輪王によって殺されることになった。(類聚国史

 

 ただしこれも仮説である。そもそも饒速日命という神の実情がわからない限りどうしようもない。

 

 参考にいくらか説を載せておく。

 以前も紹介した西都原考古博物館の館長を務めた日高正晴は「古代日向の国」において、物部氏の起源を大分県の直入県に求めている。そして大分宮崎を豊日文化圏を捉え、都農で饒速日命が祭られているのも当然としている。

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 また民俗学者谷川健一は白鳥伝説と物部氏を結びつけ、蝦夷なども絡めて壮大な議論を展開しているが、あまりにも壮大すぎるので紹介にとどめておく。

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尾鈴山について 再考②信仰の起源

 尾鈴山の信仰の起源は何か。

 御神体を避難させたことで尾鈴山信仰が生まれたとの説も採りうるが、避難させる以前の室町時代に尾鈴山と吐乃大明神の関連性が述べられている以上説得力を欠く。 

 また都農神社と三輪氏との関連性から、尾鈴山を三輪山に比定するという考え方を私は以前採っていた。この説によれば、三輪氏の移住が信仰の起源となる。しかしこれも三輪山と尾鈴山を実際に登ってみると誤りであることがわかった。平地からの距離や、標高や土、傾斜など異なるところが多すぎ、比定することは困難であろう。

 あまり複雑に考えずに、単に水源地としての尾鈴山に神性を感じ、自然発生的に信仰が生まれ、それが吐乃大明神として都農神社で祭られること考えてよいのではないかと現時点で私は考えている。根拠としては尾鈴山で雨乞いが行われていたことが挙げられる。

 ただこの説には重大な欠陥がある。水源地としての尾鈴山に神性を感じたのならば、尾鈴山から流れる川沿いに都農神社があるのが自然だが、都農神社を流れる川は尾鈴山から流れでていない。

 そうするともっと単純に考えて、一番高い山であることを信仰の理由としてもよいのだが、都農から見た時周囲の山々との高さの違いがわからないという問題もある。

 あるいは柳田国男のいう祖霊信仰が起源かもしれない。

 結局のところよくわからないので、確証を持てることはないであろうがそれらしき考えがまとまったら改めて記事にしたい。f:id:ekusuto168:20160901170238j:plain

尾鈴山について 再考①尾鈴山と都農神社

 尾鈴山について以前記事を書いたが考えが変わったため再掲する。

 

 尾鈴山そのものを祭っている神社として、尾鈴神社、細神社がある。両神社とも尾鈴山の近くにあり、尾鈴山信仰が生まれるのはもっともであろう。

 今回考えるのは都農神社が尾鈴山信仰を内包しているかである。

 

 日向国古臾群に、吐濃峯と云う峯あり。神おはす。吐乃の大明神とぞ申すなる」 (日向国 風土記 逸文

 

 日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。神ヲハス、吐乃大明神トソ申スナル。昔シ神功皇后新羅ヲウチ給シ時、此ノ神ヲ請シ給テ、御船ニノセ給テ、船ノ舳ヲ護ラシメ給ケルニ、新羅ヲウチトリテ帰リ給テ後、韜馬ノ峯ト申ス所ニヲハシテ、弓射給ケル時、土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、弓ノハズニテ堀出シ給ケレバ、男一人女一人ソ有ケル。

(塵添壒囊抄 室町時代末期)

 

 尾鈴の神は時々白馬に乗つて、山の尾を伝つてそして今の都農神社の真上あたりを飛んで、都農の浜にお参りしておられました。その時運の良い者は大空遠くに、白馬に乗られた尾鈴の神を拝むことが出来ておつたといわれております。そして尾鈴の神が虚空を飛ばれる時は、神馬の姿は明月のように、はつきりとながめられ、神馬の胸に掛けた金色の鈴の音は、馬の、いななきの声とともに天空に遠くさえわたり響いていたといわれております。天空高く神鈴を聞くので、新納山の吐乃峰の神をお鈴様と呼ぶようになつたと、これが尾鈴の名が起つた由来であると伝えられています。

 日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年)

 

 上記三資料の記述を総合すると、尾鈴山に吐濃峯があり、吐乃大明神がいたということがわかる。吐濃も吐乃も「つの」を意味するものであろう。

 都農の中心的な神社である都農神社は吐乃大明神を祭っていたと考えるのが妥当であり、それは尾鈴山に祭られた神と同じであった。

 1578年に都農に大友宗麟の軍勢が乱入した際に御神体を矢研の滝近くまで避難させたとの記述や、1878年の西南戦争の際に戦乱を危惧して御神体を避難させたとの記述がある。このことから少なくとも1578年以降は都農神社と尾鈴山の関係は切っても切れないものであることが伺える。

 

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都農の民話

 都農高校の先生が編纂した「つの町ふるさと物語」には町史に収められていない多くの民話が収録されていた。恐らく発行部数は少なく、図書館などにしか置かれていないと思われる。聞いたことがある民話と細かい点で内容が違うものも多く、その意味で参考になった。

 民話の多くは都農で使われる慣用句の由来や、地名の由来などだが、河童、神武天皇関連の逸話も多かった。のほほんとした民話が多い。それだけに以前も紹介した「都農神山の白鳥」という民話で、白鳥を捕らえただけで一万もの人が死んだとされていることが異様に感じる。

 明田に伝わる浦島太郎伝説や、名貫川の由来など町史には載っていないが興味深い話がいくつか載っていたので要約して載せる。

 

1、浦島太郎伝説

 乙姫様にあたる方が「津野姫」という名で、都農と縁が深かった。そのため浦島太郎は玉手箱をもらって帰ってくる時に明田の浜に上陸したという。

 

2、名貫川の由来

 耳川の戦い(高城川の戦い)で敗北した大友軍が敗走中に名貫川を渡ろうとしたが濁流でなかなか渡ることが出来なかった。常に浅い川だと聞いていたのにと大友軍の大将が嘆いたことから「嘆き川」となり、訛って「名貫川」になったという。

 

3、その他

 以前紹介した猫神様には対になる犬神様がいたという話も載っていた。そのほかにも遍照院の刀傷が残っていないことも確認できた。

 

日向諸県君と葛城氏

1、日向諸県君と葛城氏

 西都原考古博物館で特別展として「日向諸県君と葛城氏」が展示されていた。

宮崎県立西都原考古博物館|開催中

 5世紀に活躍した日向の諸県君と大和の葛城氏についての展示である。

 以前紹介した「古代日向の国」という本で両者の関係についての考察がなされているのだが、同著の著者は西都原考古博物館の館長を務めた方であり、今回の展示にはその延長線上の考察が展開されているものと期待していた。

 しかし本展示では諸県君と葛城氏の関係性についてはあまり踏み込んでおらず、日向がヤマト政権と関わりを持っていたという程度に濁されていて、やや期待外れであった。また通常展示で南九州の独自の文化色を強調していながら、特別展で日向とヤマト政権の関わりを示唆してしまっては、観覧者の混乱を招きかねないように思う。

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