川南・西都の神社
1、平田神社(川南)
川南の中心部からほど近い地にある。祭神はヤマトタケルノミコト。
ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐の際にこの地に宮が置かれたことが神社の由来となっているそうだが、都農神社と同様に大友宗麟の焼き討ちにあっているため、戦国時代以前のことはわからない。
神社に置かれている記帳を見ると毎日地域の方が訪れているようで、地域の方の信仰は厚いのであろう。またホームページも作り込まれていて驚いた。
【平田(へいだ)神社】宮崎県児湯郡川南町(こゆぐんかわみなみちょう)の神社
2、三宅神社(西都)
西都原古墳群のある台地上、日向国分寺跡付近に位置する。祭神はニニギノミコト。
かつて西都農神社とよばれていたという記述を本で見たので、今回訪れた。
市街地からはやや外れているが、地域の人たちの信仰は厚いようで、社殿と境内は綺麗であった。
三宅という名前から考えるに、屯倉(ヤマト政権の直轄地)の拠点があったのであろう。西都農神社と呼ばれていたのも「西/都農」ではなく、「西都/農」から来たのではないかと思われる。
都農の諸神社と古墳
1、都農の諸神社
以前都農の諸神社という記事を書いたが、今回は案内していただき小さな神社を中心にめぐった。
山間部の神社を除いて10社ほどを訪れた。かつて都農に子供が多かった影響なのか菅原神社が多い。菅原八坂神社という不思議な名前の神社があったが、それには由来があるそうで、教えて頂いたが、ここでは伏せる。
10世帯ほどの小規模の地区も含めてほぼ各地区毎に一つは神社があった。今でも信仰は続いているそうで、9月ごろに各神社ごとに祭りが開かれているという。土俵がある神社も散見された。
実際に確認したわけではないが、都農の神社は石を御神体としているところが多いそうだ。
リニアの実験線の終点付近にある金比羅神社は地区の神社というわけではなく、行商人の信仰を集めていたそうである。
2、都農の古墳
都農にも古墳があり、そのうちのいくつかは積石塚と呼ばれる珍しい形態をとる。
「古代日向の国」(日高正晴、1993)では、積石塚があるのは九州では都農だけで、東北アジアから影響を受けた可能性があると指摘されている。
リニアの実験線の終点付近と、龍雲寺の側にあるのだが、龍雲寺の側にあるものしか見つけられなかった。
写真のように現在はコンクリートで固められており、石を積んだ塚には見えないが、昭和11年ごろに撮影された写真を見ると、確かに石を積んだ塚となっている。
県北の山体信仰
都農の名所の一つに尾鈴山が挙げられ、その信仰も厚い。尾鈴山の関連で今回は県北の山体信仰を取りあげる。
1、速日の峰
早日渡神社において祭られている。
速日の峰は饒速日が降臨した地として伝えられており、その意味で尾鈴山との関連性を見出すことも出来る。
早日渡神社は延岡市の旧北方町にある。九州中央自動車道を降りてすぐにある道の駅北方よっちみよろ屋から、徒歩5分ほどで行ける。
2、二上山
二上神社と三ヶ所神社において祭られている。標高1000mほどの山である。天孫降臨の地として伝わる。信仰は奈良時代以前からあったようだ。天孫降臨の地であるにもかかわらず、ニニギノミコトではなくイザナギノミコト、イザナミノミコトが祭られている点は興味深い。
二上神社は高千穂町に鎮座している。高千穂から五ヶ瀬へ抜ける旧道から途中で脇道に入るとたどり着く集落を見下ろす位置に建つ。高千穂町側からの二上山信仰の地である。
二上神社 | 観光スポット | 高千穂町観光協会 | 宮崎県 高千穂の観光・宿泊・イベント情報
三ヶ所神社は五ヶ瀬町の中心部付近に鎮座している。
社殿に海馬の彫刻があることから、脳の活性化についての信仰も盛んなようである。
二上山の9合目に奥宮もあるそうだが、今回は訪れていない。
美々津観光
美々津は都農から近いこともあって、よく通るのだが、町中を訪れたのは子供のころ以来だった。子供のころは祖父が仕事のついでによく美々津まで連れていってくれた。
美々津は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、江戸・明治ごろの趣ある街並みが残されている。写真を撮ればよかっただが、写真では伝わりにくいと思い撮っていない。
1、日向市歴史民族資料館
美々津の街並みの中央に位置し、廻船問屋を復元した資料館である。平日の午前中という時間だったからか、他に人はおらず、家の造りや、街並み、町の歴史などを細かく解説していただいた。
耳川の河口にある美々津の町は椎葉から切り出した材木が集積される地であり、江戸、明治と廻船で栄えたそうだ。しかし大正に入り鉄道が開通すると陸運が中心となり、徐々に廃れていったそうである。50年ほど前に日向市と合併したのだが(その際に都農との合併の話もでた)、元は児湯郡であった。そのため合併前の時代を知っている人は児湯郡への愛着を持っているようで、児湯郡への愛着と美々津への誇りを語ってくださる方もいた。
2、立磐神社
美々津は神武天皇のお船出の地として有名で、立磐神社では神武天皇が腰掛けたとされる岩が御神体となっている。
鳥居付近には波の形を象った日本海軍発祥之地碑がある。
廻船問屋が盛んな地であったからか航海の安全の神である住吉三神も祀られている。
神武天皇東征の神話について詳しくは以下のリンクを参照。
3、八坂神社
美々津の街並みの端にある。神武天皇がお船出のまでの間仮の住まいとされていたとされる地を祭った神社。
みやざき観光情報 旬ナビ/日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区
現状5日毎に更新としていましたが、書くことも徐々になくなりつつあるので、週に一度とします。すみません。
つのぴょんと行く!都農町探検
何故郷土研究か
前回の記事のように郷土研究とは異なる内容を書くこともある。一応このブログの内容は郷土研究が中心となっている。
では何故郷土研究なのか。
私が把握している限りでは大学の周りに郷土研究をしている人はいない。趣味として取り組もうという人はあまり多くないであろうし、仮にいたとしても若い人にはほぼいないであろう。
郷土研究を初めた理由についてきちんと考えてみると、歴史や民俗が好きで、さらに都農が好きだからということは浮かんでくるが、よくよく考えると祖父の影響が大きいのだと思う。
五年ほど前に祖父が亡くなった時、私はまだ高校生だったのだが、当時は都農のことがそれほど好きではなかったし、毎日楽しく生きることしか考えていなかった。だが祖父の葬儀の際に、祖父の人生について考えてみた。
祖父は生まれてから死ぬまでほぼずっと都農にいた。かつてはどうであったか知らないが、少なくとも私が物心がついて以降は年に一度の家族旅行すら嫌がり、前日まで毎回渋っていた。
都農が好きというよりは、都農以外の世界をそれほど知らないからずっと都農で暮らしていたのだろうと思う。グローバリズムが広がりを見せる中で、ある意味真逆な生き方をしていたわけである。
少し話は飛ぶが、大学の入学式で私の大学の当時の総長は「タフでグローバル」であれといっていた。それと真逆な生き方をしても幸せそうに祖父は生きていた。
経済的に豊かとは言えず、華やかであったとは言えないが、自分の仕事や家族に誇りを持って生きれたらそれはそれで幸せなのだと思う。
自分は東京で暮らしている以上祖父のような生き方をすることは無理なのはわかっているが、祖父が幸せそうに生きた都農はどういう町だったのか知りたいと思い郷土研究を始めた。
民俗学の学際性
1、学際性の必要性
島村恭則氏は「フォークロア研究とは何か」[i]の結びにおいてフォークロア研究の学際性を強調している。
もう一つあらためて注意しておきたいのは、フォークロア研究は、人文社会系諸学の学際的状況の中で成立するものだということである。[ii]
同氏によればフォークロア研究とは民俗学を批判的・継承的に発展させたものであるため、民俗学と異なる部分もあるが、民俗学及び他の学問の発展のためにも民俗学の学際性は必要といえるだろう。
民俗学の学際性について検討される際、多くの場合は隣接している社会学や歴史学、文化人類学が取り上げられる。島村恭則氏もそうである。しかし他の学問との関わりも考えてみるべきであろう。
そこで本論では私自身が所属している学部の関係から法学と民俗学との関わりを考えていく。振り返ってみれば民俗学の創始者たる柳田国男も法学部卒業であり、日本国憲法審議会に参加していることなどから、民俗学と法学は少なくとも柳田の思考枠組みの上では関わりを持っていたといえるだろう。
2、法学と民俗学
法律が人々のあり方を制約する以上、法学と民俗学の距離は近いといえる。法学の中でも、民俗学にとって関わりが深いのは家族法であろう。以下で家族法と民俗学について検討していく。
「家」制度の残滓をほぼ一掃し、形式的な男女平等を実現した新しい家族法は、戦後の日本社会の形成に大きな役割を果たしてきたといってよい。習俗はつねに法律によってリードされてきたのである。[iii]
ここで述べられているように習俗が法律という外生的制度によって動かされることは否定し難いであろう。一般的な人々を研究する民俗学は一般的な人々の行動を制約する法律を常に念頭に置いて考える必要がある。
ところが、1980年代以降、状況は変わりはじめる。戦後30年を経て、ようやく習俗が法律を追い越す兆しをみせているのである。現行法の不備が語られ、手直しが考えられはじめている。[iv]
また現実の習俗に対応しきれなくなった法学の側からも民俗学が求められているといえる。理論的枠組みや規範としての法学はおいておくとして、少なくとも現在の人々のあり方については民俗学の方が法学よりもより正確に捉えているはずであり、何らかの知見は提供出来るだろう。
例えば夫婦の姓のあり方や、生殖補助医療の登場、扶養義務など多岐に渡る問題を家族法は抱えている。そもそも家族とは何かという議論も展開されている。大村敦志によれば1947年に制定された戦後の新民法は引き算で応急処置的に作られたものであり、現行の家族法は限界を迎えつつあるのであろう。
先月120年ぶりの債権法大改正がなされたこともあり、法改正の機運は高まっているといえる。このように法改正の機運が高まっている状況下だからこそ、民俗学は現実の人々のあり方についての知見を提供し、法学の発展に大きく貢献出来るだろう。
[i] 島村恭則 「フォークロア研究とは何か」 (『日本民俗学』278号 2014年5月)
[ii] 同上
[iii] 大村敦志 「家族法 第3版」 有斐閣法律学業書 2010年
[iv] 同上