都農の歴史④ 近世
1、江戸時代
日向国高鍋領郷村高辻帳(1711年)には現在都農町に属する村々が挙げらている。寺迫村・征矢原村・長野村・瓜生村・岩山村・篠野別府村が記載され、石高は合計すると1983石8斗2升である。
税制は定免法(過去数年の収穫から計算)がとられ、ある年の年貢率は34.1%である。この他にも穀物や銀・銭などの上納や労働力を夫役として提供しなければならなかった。
都農は尾鈴山での林業が盛んであったためか商家が多い。都農町の町人は1838年には553人で、これは藩内の町人数の3割近くを占める。藩内において最も大きい町であった。有力な家として赤木家、塩月家、緒方家などがあげられる。
江戸時代の都農に漁業を本業とする人はほぼいなかったが、江戸時代の末に日向の細島から一本釣りの技術を持つ専業漁師が移住してきて、福原の海岸下浜に定住した。彼等は明治時代に入ると都農の魚市場の実験を握ることとなる。
現在都農町に属する地域の人口は約5000人ほどであったと考えられる。高鍋藩全体の人口や都農町の町人の人口がほぼ横ばいであったことを考えると、都農においても人口は横ばいであったと思われる。間引きなどは盛んに行われていたようだ。
人口は横ばいではあるが開墾はなされていたようで、1666年には110町だった水田は1878年は478町となっており、約4倍に増えている。
都農の歴史③ 中世
1、鎌倉時代
日向國図田帳(1197年)によると、都農は殿下御領と呼ばれる藤原氏の荘園であり、「新納院百二十丁、右児湯郡内地頭掃部頭」に含まれる。新納院とは都農を含む荘園の名で、木城・高鍋・都農・川南を中心とした地域を指す。掃部頭とは源頼朝側近の中原親能のことである。
2、室町時代
九州は南朝の勢力が強く、今川了俊が14世紀末に九州を平定するまで争いが激しかかった。その様子が都農の領主の変遷にも見られる。
室町時代初頭は都農は島津氏の分家である新納氏の支配下にあった。しかし1357年には土持氏に支配が移る。さらに1457年には伊東氏が土持氏に勝利し、都農の辺りは伊東氏の支配下におかれた。
3、戦国時代
伊東氏は日向国内での勢力争いを優勢にすすめるも、木崎原の戦いで島津氏に敗北して劣勢となり、1577年には都農も含めた日向国一帯は島津氏の支配下に入る。その後伊東氏は大友氏に救援を求め、それに応じた大友氏が日向国に入る。しかしその大友氏も耳川の戦いで島津氏に破れた。
大友氏が都農を制圧した際に都農神社を焼き払ったため、戦国時代以前の都農町についての文字史料はほぼ失われてしまった。
耳川の戦いと都農との関わりについては以前まとめたので、以下のリンクを参照してください。
だがその島津氏も秀吉による九州征伐に破れ、1587年には秋月氏が都農も含めた高鍋藩一帯に入る。その後の関ヶ原の戦いでも秋月氏は上手く立ち回り、所領は安堵され、高鍋藩が成立する。
都農の歴史② 古代
1、中央政府との関わり
律令制が整備されていく中で、国郡里制が施工された。和名類聚抄(931~938年)には児湯郡都野という記載がある。
都農には駅(伝馬の設置場所)が設置されていたと思われる。都農の草書とよく似た「去飛駅」が都農駅に比定される。
都農の港のほうに都農駅で使われていたという伝承が残る井戸があるが、地理を考えると都農神社付近に都農駅が置かれたと思われるので、後世の創作であろう。
また延喜式(905年)に馬牧として「都濃野」という記述があるが、おそらくこれは都農のことであろう。
11世紀に入ると、寄進地系荘園が広まっていく。宮崎県の県北や県央は宇佐神宮の荘園となっていたので、おそらく都農も宇佐神宮の荘園であったのだろう。
2、都農神社
都農神社は837年に官社となり、843年には従五位下の位が授けられた。858年には従四位上となっている。
延喜式神名帳(927年)では日向国内の神社で都農神社が一番神位が高く扱われており、日向国一宮となっている。
また都萬神社との勢力争いもあったようだが、詳しい記述がなく定かではない。
都農の歴史① 原始時代
都農の歴史について簡潔にまとめていく。参考資料は主に都農町史1998年になります。
1、縄文時代まで
縄文時代は温暖な気候で、宮崎の海岸付近では現在よりも5~10mほど海水面が高かったことが予想される。したがって現在の都農の中心部は海で、国道10号線よりも西側の台地で暮らしていたと思われる。
町内における遺跡の数は少ないがいくつかみつかっている。
2、弥生時代
立地を考えると縄文後期には稲作が伝わっていたと思われる。県内では川南や新富に大規模な墓地群が発見されている。
都農でも岩山や新別府で遺跡が発掘されているが、その規模は小さい。
3、古墳時代
県内では西都原、持田、新田原、川南など各地に大規模な古墳群が形成される。
都農では明田地区に積石塚が形成される。「古代日向の国」(日高正晴、1993)では、積石塚があるのは九州では都農だけで、東北アジアから影響を受けた可能性があると指摘されている。
また西都原古墳群の博物館においては、県南部では非稲作文化が展開されていたという主旨の展示がなされている、通説かどうかは定かではないが、興味深い展示なので是非一度見ていただきたい。
確たる証拠はないが、私はこの時期に三輪氏が都農に移住してきたと考えている。また木戸平に吉備氏の一派が移住してきた可能性も高い。
4、最新の研究報告
東九州自動車道の建設に伴い町内で幾つかの遺跡が発見され、調査が進んだ。
同調査によって弥生時代後期から古墳時代前期まで都農に集落が存在していたことが明らかになった。
詳しくは以下のリンクを読んでいただきたい。(まとめがp65からあるのでそちらだけでも)
戦時下の都農
まずは都農の戦時下について町史に書かれていることを簡単に書く。
都農は隣の川南に空挺部隊の演習場があった影響で、野営地の一つとなっていた。都農からも多くの兵士が徴集され、都城連隊に編入されて中国、フィリピンなどを転戦した。また沖縄県の糸満市から疎開を受け入れていたという。その縁で姉妹都市となっている。
戦争末期になると予測される米軍の上陸作戦(オリンピック作戦)に対処するため、都農に師団が配備された。終戦時までに配備は完了しきらなかったものの、2万を越す兵が都農にやってきたという。
以下は聞き書きで、町史に記載のないものになります。
北新町のあたりに3名の米軍捕虜が収容されており、また保育所のあたりに憲兵隊の施設があったという。
都農に配備された菊地兵団の櫻井少将(おそらく櫻井徳太郎氏だと思われる)は戦後もそのまま都農に残り、私が話しを聞いたかたと共に畑を耕したという。
当時の価値観は戦後生まれの私にはわからないが、当時の価値観からすれば少将と共に畑を耕すのは衝撃的だったのだろう。少将への敬意を払いつつ、語ってくださった。
都農のゲストハウス
都農駅がリニューアルしたそうだ。8月になれば夏休み入るので、ジオラマも見に行ってみたい。
都農にはあまり宿泊施設が多くない、最近出来た国道沿いにあるホテルAZと駅前の亀屋、町中の大黒屋のみである。
私は一人で旅行するときにはゲストハウスに泊まることが多い。大抵一泊2000円程度と安く、また同年代の宿泊客と交流出来るからである。
調べてみたところ都農にもゲストハウスがあるようである。(以下のリンク参照)ただ都農の中心部から大きく離れている。
春に港を自転車でふらふらしていたら、港の北端でゲストハウスと書かれた看板を発見した。あとで調べればよいと思いその場で確かめなかったのだが、ネットで調べても出てこない。
もし知っているかたがいたら詳細を教えていただけると幸いです。
南原繁と折口信夫 その四
一応柳田の祖霊信仰(固有信仰)が神道の普遍宗教化につながる可能性について考えてみる。祖霊信仰はその名が表すとおり、祖先信仰が根底にあり、丸山の南原に対する批判がそのまま当てはまる。柳田の祖霊信仰においては氏族的な性格は弱められているという反論があるかもしれないが、日本的な習俗が背景にあるわけで普遍宗教とは言い難い。またそもそも柳田は祖霊信仰の普遍宗教化を企図していないだろう。
ここまでみてきたことを踏まえると神道の普遍宗教化は難しいように感じますが、その三で指摘したように柄谷の批判にはやや的外れなところがあります。そう考えると折口の志向した祖先信仰を脱却した形での神道の普遍宗教化は可能性がないわけではありません。
ここで思い浮かぶのが天理教や金光教といった教派神道ですが、現在徐々に勢力を落としており、普遍宗教と呼べる存在にはなりそうにありません。また宗教的なカリスマが生まれる可能性がそう都合よく世に出てくることもないでしょう。
しかし経済成長が鈍り、個人のアトム化が進む一方で寄るべきよすがを持たない日本人は、もう一度普遍宗教について考えてみる必要があるのかもしれません。
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書き始めと考えがかわったため尻切れトンボのような終わり方になってしまいました。
自分の中で考えがまとまり次第加筆します。