都農の歴史① 原始時代
都農の歴史について簡潔にまとめていく。参考資料は主に都農町史1998年になります。
1、縄文時代まで
縄文時代は温暖な気候で、宮崎の海岸付近では現在よりも5~10mほど海水面が高かったことが予想される。したがって現在の都農の中心部は海で、国道10号線よりも西側の台地で暮らしていたと思われる。
町内における遺跡の数は少ないがいくつかみつかっている。
2、弥生時代
立地を考えると縄文後期には稲作が伝わっていたと思われる。県内では川南や新富に大規模な墓地群が発見されている。
都農でも岩山や新別府で遺跡が発掘されているが、その規模は小さい。
3、古墳時代
県内では西都原、持田、新田原、川南など各地に大規模な古墳群が形成される。
都農では明田地区に積石塚が形成される。「古代日向の国」(日高正晴、1993)では、積石塚があるのは九州では都農だけで、東北アジアから影響を受けた可能性があると指摘されている。
また西都原古墳群の博物館においては、県南部では非稲作文化が展開されていたという主旨の展示がなされている、通説かどうかは定かではないが、興味深い展示なので是非一度見ていただきたい。
確たる証拠はないが、私はこの時期に三輪氏が都農に移住してきたと考えている。また木戸平に吉備氏の一派が移住してきた可能性も高い。
4、最新の研究報告
東九州自動車道の建設に伴い町内で幾つかの遺跡が発見され、調査が進んだ。
同調査によって弥生時代後期から古墳時代前期まで都農に集落が存在していたことが明らかになった。
詳しくは以下のリンクを読んでいただきたい。(まとめがp65からあるのでそちらだけでも)
戦時下の都農
まずは都農の戦時下について町史に書かれていることを簡単に書く。
都農は隣の川南に空挺部隊の演習場があった影響で、野営地の一つとなっていた。都農からも多くの兵士が徴集され、都城連隊に編入されて中国、フィリピンなどを転戦した。また沖縄県の糸満市から疎開を受け入れていたという。その縁で姉妹都市となっている。
戦争末期になると予測される米軍の上陸作戦(オリンピック作戦)に対処するため、都農に師団が配備された。終戦時までに配備は完了しきらなかったものの、2万を越す兵が都農にやってきたという。
以下は聞き書きで、町史に記載のないものになります。
北新町のあたりに3名の米軍捕虜が収容されており、また保育所のあたりに憲兵隊の施設があったという。
都農に配備された菊地兵団の櫻井少将(おそらく櫻井徳太郎氏だと思われる)は戦後もそのまま都農に残り、私が話しを聞いたかたと共に畑を耕したという。
当時の価値観は戦後生まれの私にはわからないが、当時の価値観からすれば少将と共に畑を耕すのは衝撃的だったのだろう。少将への敬意を払いつつ、語ってくださった。
都農のゲストハウス
都農駅がリニューアルしたそうだ。8月になれば夏休み入るので、ジオラマも見に行ってみたい。
都農にはあまり宿泊施設が多くない、最近出来た国道沿いにあるホテルAZと駅前の亀屋、町中の大黒屋のみである。
私は一人で旅行するときにはゲストハウスに泊まることが多い。大抵一泊2000円程度と安く、また同年代の宿泊客と交流出来るからである。
調べてみたところ都農にもゲストハウスがあるようである。(以下のリンク参照)ただ都農の中心部から大きく離れている。
春に港を自転車でふらふらしていたら、港の北端でゲストハウスと書かれた看板を発見した。あとで調べればよいと思いその場で確かめなかったのだが、ネットで調べても出てこない。
もし知っているかたがいたら詳細を教えていただけると幸いです。
南原繁と折口信夫 その四
一応柳田の祖霊信仰(固有信仰)が神道の普遍宗教化につながる可能性について考えてみる。祖霊信仰はその名が表すとおり、祖先信仰が根底にあり、丸山の南原に対する批判がそのまま当てはまる。柳田の祖霊信仰においては氏族的な性格は弱められているという反論があるかもしれないが、日本的な習俗が背景にあるわけで普遍宗教とは言い難い。またそもそも柳田は祖霊信仰の普遍宗教化を企図していないだろう。
ここまでみてきたことを踏まえると神道の普遍宗教化は難しいように感じますが、その三で指摘したように柄谷の批判にはやや的外れなところがあります。そう考えると折口の志向した祖先信仰を脱却した形での神道の普遍宗教化は可能性がないわけではありません。
ここで思い浮かぶのが天理教や金光教といった教派神道ですが、現在徐々に勢力を落としており、普遍宗教と呼べる存在にはなりそうにありません。また宗教的なカリスマが生まれる可能性がそう都合よく世に出てくることもないでしょう。
しかし経済成長が鈍り、個人のアトム化が進む一方で寄るべきよすがを持たない日本人は、もう一度普遍宗教について考えてみる必要があるのかもしれません。
※
書き始めと考えがかわったため尻切れトンボのような終わり方になってしまいました。
自分の中で考えがまとまり次第加筆します。
南原繁と折口信夫 その三
折口信夫の神道普遍宗教化については柄谷行人氏が「遊動論 柳田国男と山人」において批判している。ただしタイトルにもあるようにあくまで柳田国男論が中心で、柳田国男の固有信仰と対比する形で折口を批判している。(第四章の5 p157~166)
該当部分の要約
折口信夫は神道から祖先信仰的なものを取り去れば普遍宗教化出来ると考えているが、祖先信仰は普遍宗教化の妨げとなるものではない。普遍宗教には神が人を愛するという関係が必要である。例えばユダヤ教はバビロン捕囚の際にそれを神の責任にせずに自らの信仰不足に求めたときに、人が神を愛し、神が人を愛すという関係が生じ普遍宗教となった。
また折口は普遍宗教化には預言者のような宗教的な人格が必要であるとし、教義理論を重視するが、それは知的類推に過ぎない。普遍宗教化の背景にあるのは世俗的な社会変化である。例えばユダヤ人はバビロン捕囚の際に定住農耕民から遊動的な商業民となった。
まず柄谷は柳田の固有信仰の中核となる先祖崇拝を折口が否定したことを批判している。普遍宗教に愛が必要なことをその根拠とし、例としてユダヤ教をあげている。しかしそもそも普遍宗教に愛が必要だという論理はよくわからない。そもそも普遍宗教という概念は曖昧ではあるのだが。またユダヤ教が普遍宗教だというのには多いに議論のあるところであろう。
また普遍宗教化の背景には社会変化があるというが、戦後の日本の社会変化の激しさは相当なものであろうし、ユダヤ教はともかくキリスト教誕生当時そこまで社会変化が激しかったとも思えない。
柄谷の批判は遊動論という観念に引っ張られすぎてやや的外れなものになっている。遊動性を重視するならイスラム教を例に出せば良いのにと個人的には思うのだが…
南原繁と折口信夫 その二
前回の記事の続きになります。今回は前回取り上げた南原繁と折口信夫の論考についての批判になります。
南原繁に対する批判は丸山真男によってなされました。1964年に行われた南原繁と丸山真男の座談会において南原は以下のように述べます。
民族の個性があって、ほんとうの祖国日本という意味においての民族の共同体はいつまでも残さなければならない。世界の共同体ができても、これを踏まえてのものですね。それはいわば神的秩序だと思う。
そこに私は、日本の神話なり、歴史を生かす道があると思う。たとえばあの神話においては、われわれの祖先は遠く昔から日本民族の永遠性を信じている。どこの民族もそうでしょうが、ことに神国といっているところに、象徴的な意味がある。
(戦後日本の精神革命)
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こういった形で南原は戦後20年近く経っても神道の普遍宗教化を考えているわけです。しかし南原の弟子でもある丸山は気を使いながらもこれを批判します。
神話に普遍的意味を与えるのは非常に難しいところだと思うのです。「神の国」という概念は、やはり先生は、根本にキリスト教的な考え方から考えられますけれども、日本の実際では氏族神になるのですね。ですから、皇室の祖先だし、どこまで遡ってみても祖先神はやはり特殊者にすぎない。特殊者を越えた、普遍者という観念にはならないのですね。
(同上)
日本書紀なり古事記なりを読めばわかりますが、大抵の神様は何某かの氏族の祖先なわけです。例えば饒速日命が物部氏の祖先だというように。
キリスト教における神様を創造していただければわかりやすいかと思いますが、普遍的な神というのは全てを超越した絶対的な存在であって、キリストを除けば誰かの祖先だとかそういうことはないわけです。現実の人と隔絶した存在であるところに普遍性があり、それが民族的な宗教にとどまる神道とキリスト教との大きな違いなわけです。
丸山がここで指摘しているのは日本の神は氏族神であって、人と隔絶した普遍的な神にはなれない。結局氏族、民族の神にしかなれない。そういうことであります。
これは最もな指摘であるのですが、折口の神道普遍宗教化には柄谷行人によって丸山と真逆の批判がなされるのであります。
南原繁と折口信夫 その一
ネタが尽きつつあるので、論考を。
南原繁は戦後最初の東大総長を務めた政治学者である。一方で折口信夫は民俗学者である。両者はかなり異なる背景を持ち、対談などといった形で積極的な交流を持たなかったと。しかし両者とも同じ時期に同じようなことを考え、発表した。それは神道の普遍宗教化である。
南原は1946年2月の紀元節(現在は建国記念の日)に東大で「新日本文化の創造」と題する演説を行った。
簡潔に要約する。(簡潔過ぎるので詳しくは読んでいただけると幸いです。)
敗戦によって戦前の誤った日本精神が崩壊した中で、新たなる精神的変化が必要である。「人間を超えた超主観的な絶対精神」と出会うことで人間はその限界を克服して、真の自由を手に入れられる。それには「新たに普遍人類的世界宗教」を受けいれなければならない。そしてその中で神道の可能性を示した。
折口は戦争末期から「神道の新しい方向」や「民族教より人類教へ」、「神道宗教化の意義」といった論考の中で神道の普遍宗教化について考えている。「神道の新しい方向」については青空文庫(著作権が切れた著作を無料で読める電子文庫)に掲載されていたので、リンクした。
南原の演説は、演説であるため聞き手である当時の東大生には多少なりと影響を与えた思われ、また朝日新聞に掲載され広く読まれた。
一方で折口の論考はあまり影響力を持たず、折口自身は神道界から追放されることとなった。
戦後70年経った今振り返って考えてみると、両者の切実な願いは叶わず日本に普遍宗教が生まれることはなかった。普遍宗教を生み出そうとする運動すらほぼなかった。急速な経済成長と唯物論的無神論の流行によって覆い隠されてしまったのがその要因だと思われるが、それ以外にも理由はある。
その二で南原、折口それぞれへの批判を検討していきたい。