ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

古代日向の国

「古代日向の国」 西都原古墳研究所所長 日高正晴、1993年、NHK BOOKS

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 古代日向の国がタイトルではあるが、内容の中心は児湯地域となっている。西都原古墳研究所所長が著者ということもあって西都贔屓な記述なのではないかと感じなくもないが、児湯地域を中心として取り扱った本は少ないので参考になった。

 以下に気になった部分をメモする。

 

第Ⅰ章の三で日向が本来は豊の国であり、西都がその中心であったと推定。現在の大分宮崎における豊日文化圏。

p82 都農に「つのう」というるび。

p90 「つのう」というるび再び。

 積石塚が都農の明田地区の海沿いにある。これは九州では都農だけで、東北アジアから影響を受けた可能性を指摘。

p140 「児湯郡神社取調書」によると西都の三宅神社を西都農神社と記していた。

p182 平群という地名から平群氏の存在を推定。(平群氏は5世紀のヤマト政権で力を持った氏族)

p196,197 日向系皇統の存在とその敗北。

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p200~207 物部、中臣の両氏の出自を豊後国直入県(現大分県竹田市)に求める。太田亮氏の説を引用し展開。

p207~p212 都農についての記述。この神社には、古くから「祝」の家柄として都農神に仕えてきた三輪氏が存在する。

 物部氏にまつわる話しが都農に多いのを、先の物部氏の出自が直入県にあったという説に求める。(ex尾鈴神社の祭神が饒速日、磐船)

p212~226 三輪山説話(大蛇の子を産む話)と祖母岳に伝わる説話との類似性を指摘し、それが朝鮮半島最北端がルーツだとする。伝承の比較をして九州に伝わったのが先で、ヤマトにはそのあと伝わったのではないかという説を提唱。

 

郡衙

 三輪貞夫さんが編集した「神社探訪 都農」に興味深い話しが載っていた。以下は太字は引用

 

ある識者の説

 滝神社の近くには、弥生時代の竪穴式住居跡の一部が確認された境ヶ谷遺跡、古代土器の出土を見た京塚、黒石などの遺跡が存在しており、ある識者は、不明としながらも「日向の国一之宮都農神社があり、その西に西の郡という集落があることから都農神社付近に駅家を兼ねた郡衙の存在を指摘し、当駅の比定はこれに続く児湯駅、当磨駅を何処に比定するか、また国府に駅家があったのか否かという問題と密接にかかわる」と述べている。

 

 都農に遺跡が多いのは確かに事実である。しかし川南、高鍋、西都に比べれば古墳の数は少ない。遺跡と古墳では時代が違うという反論もあろうかと思うが、郡衙や駅家という律令制が展開されてからの時代について議論する以上、弥生時代の遺跡よりも古墳を重視すべきである。

 補足すると郡衙とは郡の統治の拠点であり、現在の市役所のようなものである。ここでいう郡衙とは児湯郡郡衙を意味すると思われるが、同じ児湯郡国府国分寺を有する妻が存在する以上、都農に郡衙の存在があったと考えるのは厳しい。

 駅についても補足すると、古代の官道上に設けられた施設で、馬の交代などを行った。都農駅(去飛駅と記述されているが、都濃の草書体を誤記したとする説が有力)は都農にあったとして間違いないであろう。当磨駅は佐土原だと推定されている。

 西の郡という集落がどこにあるかはわからないので、これについては調べてみたい。

延岡の諸神社

1.三輪神社

 三輪氏の痕跡が見られる地ということで行ってみた。五ヶ瀬川沿いに延岡市街地から登っていき、ちょうど高速の下のあたりにある。祭神は三輪系ということで大己貴命である。

 神社そのものは地域にある普通の神社という感じがしたが、この地は下三輪という地名であり、地名からして三輪氏の痕跡が感じられる。

 神社の前にあった碑によれば養老2年(718年)にすぐ裏手の山のほうにある青谷城から移転して来たという。ということは718年より前から三輪氏の勢力がこの地にあったということになる。興味深い。

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 三輪神社(みわじんじゃ)

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2.神さん山(祝子川)

 延岡市内ではあるがかなり外れており、祝子川温泉のすぐ近くにある。祝子川は「ほうり」と読むのだが、ホオリノミコトの産湯にこの川の水を使ったことからこのような地名がついたという。

 洞穴遺跡とも言うらしく、その看板を目印に階段を登っていく。巨石信仰のようで、写真の二つの巨大な岩が御神体となっている。この二つの岩の間では縄文時代に人が暮らしていた痕跡があるらしい。

わけあって延岡 | 美人の神が産湯として使った聖流 「祝子川」が流れる渓谷

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日向国都農町史

 「日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年

 1998年に発行された都農町史の一個前のものにあたる。現在の都農町史に比べると薄く、200ページにも満たない。記述には推論や確証のない話が多く、現在の都農町史に載っていない内容が多い。その意味では大変参考になる。

※以下太字は引用

 

 饒速日命の伝説としては、尾鈴山に残されています。尾鈴山は命が御降臨なつた所で、同山中の都農崎―吐濃崎―に現在ある、長さ三十五尺、横の最も広い所が十二尺、高さが十二尺のもので、「石舟」と言つている大きな石は、命が御降臨の時に御用いになつた天磐船であると言われております。その下手に当る矢研滝は御ほこを研がれたと伝えるところであります。

 

 矢研の滝に伝わる伝承は現在では神武天皇のものになっている。しかし根拠はないが、この饒速日命の伝承が先に存在していたのではないかと思う。ここに出てくる、都農崎は矢研の滝の上流にあると思われるが、以前行こうとした時に封鎖されていて行くことが出来なかった。

 

 考えますとき、饒速日命を尾鈴神社の祭神としたのは、日向国風土記日向国」にあって、

「この山のある所を、速日の峰と言う。昔、大神の御瓊々杵命の兄の饒速日命がこの山の峰に御降臨されたので、速日という」。

また、都農郷「神あり。都農社と号す、饒速日命を祭る所也」。

以上のような説によるものでありますが、なお、明治十五年の尾鈴神社由緒事項調書に「尾鈴山は年代によって名が変つており、最も古い書によると。日向○○「二字不明」、早日の峰は、櫛玉饒速日命を祭るとあります」。尾鈴山の古い名が、早日の峰、「速日の峰」であると言うことを考えても、その最もであることが推察されるでしょう。

昔から今までに尾鈴山を、速日の峰と呼んでおるのを他の本には見ることが出来ないけれども、その主峰を、ささが丘、またはほこの峰と言うことは、今でも村人たちは伝え言つて

おるのであります。

 

 尾鈴山の名は確かに変わっており、以前は「新納山」とも言った。「速日の峰」と言っていたことは知らなかったが、饒速日命の影響が見られる。尾鈴山を「ささが丘」、「ほこの峰」と呼んでいるのは聞いたことがないが、調査してみたい。

 また日向国風土記の記述が正しいのであれば、古代の都農神社では饒速日命を祀っていたということになる。

※ただし日向国風土記逸文には記述を確認することが出来ず。ここでいう風土記とは何なのか疑問が持たれる。

 

 

 尾鈴の神は時々白馬に乗つて、山の尾を伝つてそして今の都農神社の真上あたりを飛んで、都農の浜にお参りしておられました。その時運の良い者は大空遠くに、白馬に乗られた尾鈴の神を拝むことが出来ておつたといわれております。そして尾鈴の神が虚空を飛ばれる時は、神馬の姿は明月のように、はつきりとながめられ、神馬の胸に掛けた金色の鈴の音は、馬の、いななきの声とともに天空に遠くさえわたり響いていたといわれております。天空高く神鈴を聞くので、新納山の吐乃峰の神をお鈴様と呼ぶようになつたと、これが尾鈴の名が起つた由来であると伝えられています。

 

 ここで「新納山(尾鈴山)」に「吐乃峰」があることがわかる。都農牧神社の岩山に「吐乃峰」を比定したのは誤りであった。尾鈴山に峰はいくつかあるが、素直に考えれば一番高い山頂であると考えるのが妥当なので、「吐乃峰」は尾鈴山の山頂なのだろう。

 

 

西都について その2

1.石貫神社

 西都の市街地から米良方面に少しはずれた地にある。この周辺には神話の伝承地が密集している。地区名が三宅となっているのだが、ヤマト政権の直轄地であった屯倉がその由来だと思われる。このことがその密集と関係しているのだろうか。

 石貫の石は神社の入り口近くにあり、さほど大きくなかったため見逃してしまった。

 

 コノハナサクヤヒメの父の山の神オオヤマツミノカミを祀っています。鬼と「一晩で岩屋を完成させれば娘を嫁にやる」と約束したオオヤマツミが、鬼が完成させた岩屋から1枚抜き取って投げた石が落ちた場所と伝えられています。参道入口にはそのときの物とされる石が据えられています。

伝承地詳細47 石貫神社 西都市|100の伝承地|ひむか神話街道

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2.児湯の池

 児湯の地の由来となった池。普通の池に見えるが、泥水しかわかなかった西都で唯一真水が湧き続けた池だという。

 

 炎の中で生まれたホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)の3神の産湯に使われたところと伝えられています。
 また、この池の名が古代日向の国の児湯郡の地名の由来にもなったといわれています。

伝承地詳細39 児湯の池 西都市|100の伝承地|ひむか神話街道

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3.無戸の室

 コノハナサクヤヒメの産屋の跡。今は大木と石碑のみがある。

 

 コノハナサクヤヒメが出産のために造った産屋(うぶや)の跡と伝えられています。たった一夜で子を身ごもったことをニニギノミコトから疑われたコノハナサクヤヒメは、身の潔白を証明するため、戸の無い産屋に入り、燃えさかる炎の中で3人の皇子を生んだといわれています。

伝承地詳細38 無戸室 西都市|100の伝承地|ひむか神話街道

耳川の戦いと都農

 耳川の戦いは、最近は小丸川(高城)を耳川と誤記したのではないかということで高城川の戦いとも言う。都農でも激戦があったようだ。

 まず大友軍の南下を島津軍が都農で迎撃したのだが、すぐに破れ大友軍は高城まで進軍した。恐らくその際都農神社が焼き払われたのだろう。

 その後高城で大友軍が大敗し、敗走する。合戦の詳細については以下のリンクを参照。

佐土原城 遠侍間 -高城の合戦(天正六年)-大友記に曰く耳川の合戦

 西都への道の途上にある高城を抜けていない以上山を通っての撤退は困難で、川南、都農と撤退して行くことになる。川南には両軍の戦死者を供養するため宗麟原供養塔が建立されている。

 「島津軍記」によれば、名貫原(都農)で蒲池宗雪、竹田紹哲、吉田鑑直、臼杵統景ら300余人が切られたという。筑後、豊後の有力国人が戦死していることからも相当な被害であったのであろう。中でも蒲池氏は柳川城主で、12万石の大身であった。

 また都農の瓜生にある遍照院は大友宗麟の陣営跡と伝えられているそうだ。本堂の柱には宗麟が試し切りした傷跡が残っているという。(都農町史 1955年)しかし昭和期に改築され、この傷はなくなったそうだ。

 宗麟はキリスト教を熱心に信仰するあまり、寺社に対して敵対的で、多くの寺社を焼き払っていた。そのため寺に陣をおいたという話が本当であったか疑念は残る。

 都農と川南の町境となっている名貫川の由来は、大友軍の大将が名貫川の水量の多さを嘆いた「嘆き川」が訛ったものだとする民話もある。

川南の諸神社

1.白鬚神社

  木城との境にある。浦島太郎が最後にたどり着いたという伝承も残されている。余談だが、都農の明田にも浦島太郎伝説が残されている。御神体は後ろにある山で、修験者の修行場となっていたという。

 白鬚神社の総本山は琵琶湖畔にある。宮崎市内にも白髭神社があり、そちらは伊東氏が日向に下向した際に勧請して来たのだという。説明書きによれば825年に建立されたとのことだが、その際の祭神は土着の神で、後に(恐らく市内と同時期に)名と祭神を白髭神社猿田彦大神に改めたのではないのかと思う。ちゃんと調べておらず想像でしかないのだが。

みやざきの神話と伝承101:白鬚神社

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2.甘漬神社

 線路沿いの道にあり、恐らく木を切れば海がよく見えるであろう高台に鎮座している。神武天皇が東征の際に休息なさった地でもあり、その際になくなったさる高貴な御方を祀っているという伝承が伝わっている。

 神武東征に纏わる伝承が残っているのも興味深いが、ここに都農神社と同様に大己貴命が祀られているのも興味深い。神武東征に関する伝承を残す両神社が大己貴命を祀っているのには何かあるのであろうか。伝承を素直に解釈すれば大己貴命がさる高貴な御方となるが、神話から考えるにそれはないであろう。