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ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

網野善彦について

 網野善彦の研究領域はもし分類するならば、歴史学となるであろうが、民俗学にもかなり近い。民俗学的な研究が歴史学に反映されたかたちとして興味深い。

 民俗学についての記述が多いのは以下の「宮本常一『忘れられた日本人』を読む」であろう。非常民に注目して研究を続けた民俗学者宮本常一についての回想録を交えつつ、記述がなされている。

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 著作として一番有名なのは以下の「無縁・公界・楽」になるだろう。ただ日本史について細かい知識(受験レベルでもギリギリ読める)が必要なので、いきなり読むのはおすすめ出来ない。

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 読みやすいのは「日本の歴史をよみなおす」であろう。高校生のときの私でも難なく読めた。

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 都農の家はネット回線がないので、次の更新まで一週間以上の期間が開くかもしれません。すみません。

「山民」と「山人」の混同

 柳田国男はいくつかの著作で「山民」と「山人」という言葉を用いていますが、この両者を混同してしまったかたは多いのではないでしょうか。私も最初に読んだ時は混同してしまい、柄谷行人さんの「遊動論」を読んで両者の違いに気付きました。

 今回は「山民」とは何なのかを柳田の著作を引きながら明らかにして行きます。

 理解を助けるために最初に端的に述べておくと、「山人」は存在するかどうかわからない日本の先住民(縄文人)であり、「山民」は現実に日本の山に住んでいる人たちです。

 

 1.九州南部地方の民風について

 学問上注意すべきこととして報告をしたいのは、山民の土地保有に関する思想でありまして、我々の書物によって学んだところとはなはだ相似て居ります。現行民法上の土地に関する規定は、今や吾々日本人の常識となって居りますが、我が国固有の思想少なくも中世までの思想とは大いなる懸隔のあるものであることは証明するに難くないのであります。右の山村においては、土地の保有は、決して個人所有を原則とは致して居りませぬ。一定の人が宅地及び田畠として利用する期間に、もちろん排他的の支配権を認めますが、その以外の土地は共有であります。

 これらの山林には土地に関する慣習以外にも、古代思想の残存せる点が少なくありません。

 

「山民」は土地保有に関して「協同自助」の思想を有している。そしてその思想は中世までの思想と隔たった古代の思想である。

 

 彼らは山麓の平地から運賃とも一升弐拾銭で容易に米を得るの道があるにもかかわらず、水田の築造をするのであります。その収穫は明らかにこれがために費やす労力資本を償わないのです。彼らもこれを知らないのではない、知って居ってもなおかつこれを敢えてするのである。その理由は抑も何にあるのか、恐らくは米食の習慣の増進、自作米を食うという農民の誇りに感染したのもその原因の一部でありましょう。

 

 この文章で注意したいのは、農民の誇りに感染したという語を用いていることである。「山民」があたかも農民ではないというような言い方をしている。

 

 要するに古き純日本の思想を有する人民は、次第に平地人のために山中に追い込まれて、日本の旧思想は今日平地においてはもはやほとんどこれを窺い知ることが出来なくなって居ります。従って山地人民の思想性情を観察しなければ、国民性というものを十分に知得することが出来まいと思います。日本では、古代においても、中世においても、武士は山地に住んで平地を制御したのであります。古代には九州の山中にすこぶる獰悪の人種が住んで居りました。歴史を見ると肥前基肄郡、豊後の大野郡、肥後の菊池郡というような地方に、山地を囲んで所々に城がありまするのは、皆この山地の蛮民に対して備えたる隘勇線であります。蛮民大敗北の後移住して来た豪族も、また概ね山中に住んで居りました。後年武士が平地に下り住むようになってからは、山地に残れる人民は、次第にその勢力を失い、平地人の圧迫を感ぜずには居られなかったのであります。いわば米食人種、水田人種が、粟食人種、焼畑人種を馬鹿にする形であります。この点については深く弱者たる山民に同情を表します。

 

 山地に残れる人民(「山民」)はかつて武士や豪族であったものである。ただし稲作ではなく粟の栽培や焼畑により暮らしていたものとされる。そして米食人種、焼畑人種という言葉を用いてあたかも人種の違いがあるような記述をしている。

 これが「山民」=山人というような理解を招く要因となっていると思われる。柳田自身は『九州南部地方の民風について』執筆時において、「山民」を我々と同一人種としながらも、古代の思想を引き継ぐという点や焼畑を行うという点で我々と異なる存在として認識していたのではないか。それが上記のようなわかりづらい記述に繋がり誤解を生むことに繋がっているのではないかと思われる。

 

 2.山民生活

 いやしくも谷川の流れがあれば、これを遡って奥へ奥へと開いて往って、新しい学問で海抜何千尺というような高地に、いつとなく寒い生活を始めております。

 

 しからばその新参の我々の祖先が生活の痕跡はいずれの点に求めるかと申しますと、自分はそれは稲の栽培耕作だと答えたいのであります。これも一種の仮定説で他日反証が出ぬとも限りませんが、今はまずその仮定の下に山民の生活の他の方面を説明してみようと思います。

(中略)

 我々の祖先の植民力は非常に強盛でありましたがそれにも明白に一つの制限がありました。いかなる山腹にも住む気はある。食物としては粟でも稗でも食うが、ただ神を祭るには是非とも米がなくてはならぬ。

 

 『山民の生活』おいて「山民」は我々の祖先と同一であり、習慣の隔たりを意識していない。また稲を作る理由も改められ、「山民」は稲作をするとしている。ここでは「山民」はただ山に住むだけで、我々と同じ存在として捉えられている。

 

 

問題意識

 自分の中の問題意識の一つとして格差というものがあります。共産主義的な思想を持っているからでも、搾取だなんだと喚き散らしたいからでもなく、ただ単に中産階級の減少による社会の不安定化を危惧しているだけです。

 そういう背景で注目したのが「協同自助」の思想なのであり、だからこそ何度も記事を書いているわけなのですが、また書きます。

※例のごとく試論です。

 

 「協同自助」の思想は山村特有のものなのかという疑念をずっと抱いていました。そしてその疑念はNHKの新日本風土記で伊根という町に「同等一栄」という思想があるということを知ってより強まりました。「協同自助」の思想のようなものは山村特有のものではなく、本来はどこでも見受けられるものではないかと。

 何の確証もないのですが、「協同自助」の思想というのは自生的秩序ではないのかと思うのです。三代続く長者はいないというような民話やことわざがあったりするように(都農にもあります)、ある代で富んだ家系がその後も富み続けられる保証などはどこにもないわけです。ある家の当主は自分の後の代の能力や状況について把握することは出来ません。その意味でロールズの言うところの「原初状態」に近い状態にあるわけです。もちろん現状の貧富の差はあるわけで、完全に一緒なわけではないのですが、家の存続というものを考えた時に、ロールズの言うところの「原初状態」の場合と同じようにリスクが少なくなるように「正義の選択」をすると言えないでしょうか。

 そういった選択は都市社会ではなされないでしょう。何故なら「正義の選択」は後の代まで考えた場合に初めてなされるもので、長期的かつ緊密な関係が不可欠になります。ロバート・エリクソンがアメリカの牧場を観察して明らかにしたように、長期的かつ継続的で情報が共有されやすい社会では独自の秩序が生まれやすいわけです。そしてそういった社会は都市のように流動的なものではなく、農村のような人の出入りが少ないものでしょう。山村は平地の農村に比べてより閉鎖的で、明治維新後の社会の急速な流動化の影響を受けづらかったために柳田国男が観察出来たのではないのかと思うわけです。

 

 

 柄谷行人さんは「協同自助」の思想の背景には「遊動性」があると述べていましたが、真逆の「固定性」が背景にあるわけです。

 最初に自生的秩序という言葉を用いたのはハイエクを少し念頭に置いているからで、自生的秩序たる「協同自助」の思想を私がどうにかして普及させるというようなことは出来ないでしょう。

 

 ロールズの議論を無理矢理もってきたり(そもそもロールズに対する批判も多い)、実証的な裏付けがなかったりと穴だらけな試論なのですが、備忘録として書き留めておきます。

 

 

都農でしたいこと

 来月の半ばに都農でしたいことを書き出しておきたいと思います。半分メモ代わりです。したいことが増え次第追記します。

 

・都農牧神社訪問

 都農牧神社の岩山が都農神社の御神体であったのではないかと考えているので、訪れて確認してみたい。

 

・尾鈴神社訪問

 尾鈴山信仰のあり方を確認しに行きたい。

 

・木戸平神社の捜索

 町史にはあると書いてあるが、どこにあるのかわからないので探しに行きたい。都農にいる間はいつもばたばたしてしまっているので、今回はのんびり散歩なり、自転車でぶらぶらなりしてみたいと思う。

 

・ブログのトップに載せている都農の方に聞きたいことの調査

 調査と行ってもあてがないので、親や親戚に頼んでみようと思う。また都農図書館に都農の資料があるということなので、行ってみたいと思う。(たぶん2階かな?昔行ってそれらしきものを見かけた記憶がある。)

 

あとは通ったことしかない西米良にも行ってみたいなと思う。城巡りで都於郡城、佐土原城飫肥城にも行ってみようかな。

湯ノ本

 都農には湯ノ本という地名がある。(墓のあたりです。)都農は岩盤が硬く分厚いため、温泉が湧かないのですが、このような地名があるわけです。何故なのかと思い調べてみると、二つの説が見つかりました。

 一つは広報つの2015年10月号p21に載っているものです。この記事によれば、湯ノ本はもともとは秋野という地名だったそうです。それではいつ変わったのかというと、明治に入って都農の測量を任された後藤正淑さんという方が勝手に名付けたということです。 

 この後藤さんは勘十爺から秋野の土地を譲ってもらったという話しが次号に載っています。以前書いた勘十爺の記事に追記したので、興味がある方がいたら読んでいただけると嬉しいです。

広報つの 2015年10月号 p21

http://www.town.tsuno.miyazaki.jp/display.php?cont=151207135717

 

 もう一つは「宮崎の伝説」に載っていたものです。

 むかしこの地の川に温泉が湧いていた。ある日のこと、旅の乞食が来て、「湯銭を出すから湯に入れてくれ」と頼んだところ、村の人は断った。するとその温泉がたちまち冷泉に変わってしまったという。湯之本の塩月タツ子さんは汚い旅の坊さんが来たので、「これは水じゃ。これに入ると風邪をひくぞ」と言った。それから、坊さんが立ち去るとすぐに冷たい水になってしまったと語ってくれた。いまは温泉の跡もなく、その川は三方セメントの井堰になっている。

(「宮崎の伝説 第Ⅳ期」,比江島重孝、竹崎有斐,角川書店,昭和54年)

 

 この本によれば湯ノ本ではもともとはお湯が出ていたのだが、僧あるいは乞食に湯を貸さなかったために湯がわかなくなったということである。こういう話しの類型というのはよくあるもので、例えば日向のお倉ヶ浜と金ヶ浜の伝説も同じ類型だ。また話しの書きぶりからして、塩月タツ子さんはこの話しを聞いた当時健在であったようで、これがかなり最近作られた話しだということがわかる。

 いったいどちらが正しいのかと言われたら詳細もはっきりしている前者の方だと思うが、後者の話しも面白いとは思う。

※後者の話しを知っている人に直接話しを伺えたのだが、前者の話しは知らず後者の話しが正しいと語っていた。

 もし詳しい方がいたらご教授いただけると幸いです。

第6次都農町長期総合計画

 都農町は2020年に町制施行100周年を迎える。それにあたっていくつかの事業が計画されているようで、その計画についてのパブリックコメントの募集がされている。

第6次都農町長期総合計画(素案)に係るパブリックコメントの募集について|都農町

 

 150ページほどのオールカラーの資料で、予想以上に充実した内容となっていた。私は農業・商業や社会政策についての知識も乏しければ、経験もないので特に建設的なコメントが出来ない。

 一点目を惹いたのは、都農の歴史や民俗的な資料を見学出来る施設建設の検討である。都農単体では小規模なものになるであろうし、建設されるかどうかもわからないが期待したい。

 

 一応法学部なので、パブリックコメントについて述べておきたい。

 パブリックコメントは平成11年の閣議決定で導入された。そしてその実績を踏まえ、平成17年の行政手続法改正の際に意見公募手続としてルール化された。この意見公募手続の対象となる「命令等」に今回の計画は該当しない。そのためパブリックコメントを求める義務はない。

 今回の計画についてのパブリックコメントの募集期間は2月11日から2月28日と18日間に設定された。しかし行政手続法39条3項では、意見提出期間を公示の日から起算して30日移譲でなければならないとしている。30日を下回る意見提出期間も設定も可能だが、やむを得ない理由とその明示が必要となる。もちろん今回の計画が「命令等」に該当しない以上、行政手続法に則った手続きを行う必要性はないが、社会通念から判断しても、募集期間を最低でも30日に設定したほうがよいのではないかと思う。

 

親分子分③

 親分子分②の続きになります。

 今回は更に踏み込んで親分子分を中心とした社会形態がどういった倫理意識をもたらし、それがどういう結果となったのか考えていきます。考えなければならないことが多く、まだ試論の段階なので、かなり荒い議論となっていますがその点ご理解ください。

 

 「日本における倫理意識の執拗低音」丸山真男 (必要な部分の要約)

 日本神話から動機の純粋性を「善」とする傾向が読み取れる。「きよくあかき」と「きたなき」という言葉の用法に注目。ヤマトタケル熊襲平定をその例とする。集団的功利主義的な価値判断。

 

 親分子分を中心とした社会の価値判断はどのように行われるのか。自分にとってどうであるかよりも、自分が所属する親分子分の集団への利益で考えるであろう。それが丸山の指的するような集団的功利主義的な価値判断を生み出したと思える。

 

 「超国家主義の論理と心理」丸山真男 (必要な部分の要約)

 「超国家」とは、心理や道徳などの価値が個人の良心に委ねられず、国家がその究極的実体として存在することをいう。「私事」と「公」の線引きがない日本の場合、国家が個人の内面に介入すると同時に、私的利害が国家の内部へと無制限に侵入する。

 戦前の日本の場合は天皇に絶対的価値が体現していた。天皇のいかなる行動も正義となり、権力は倫理的に粉飾される。そしてそこでは天皇との距離が価値基準となる。国民は天皇天皇へより近い者の心情を推し量って行動するため、責任意識がない。その中で上からの抑圧を下へ移譲する。

ただ天皇も主体的な行為者であるわけではない。また天皇の権威自体は伝統によるものである。

 

 そして天皇を究極的な親分。すなわち親分の親分として捉えるとどうなるか。

戦前の日本は親分子分の体系の延長線上の国家であったといえ、それは丸山が述べるような無責任の体系を内包するものであった。

 そうすると親分子分関係を中心とした社会が天皇ファシズムをもたらしたのだとも考えられる。思えば親分子分①で例に出したイタリアでもスペインでもファシズムは成立している。

 親分子分の関係は前近代的な国家には適合しうるものであったのかもしれないが、以上で見てきたように近代国家にはそぐわないものであった。

 親分子分という関係性は消滅しかかっているとはいえ、その中で生れた倫理意識は我々の中に未だ根付いている。その倫理意識と向き合う必要性があるのではないかと思う。

 

 このような試論をすることで何がしたかったのかというと、親分子分を原理とした社会とそこから生み出される意識を用い、丸山の主張のいくつかを体系化したかったのだ。浅い理解しか出来ていないので詳しくは述べないが、丸山は武士のエートスにも関心を持っていた。そういった武士のエートスもこの親分子分の関係から生れてきたのではないかと考えている。

 このように親分子分の概念を用いれば、日本の思想的な特性の根源がどこにあるのか明らかに出来るのではないか。そういう思いが私にはある。